MERCHANTS OF DOOM

英国“東インド会社”の歴史にみる教訓

March 2022

text stuart husband

プラッシーの戦い(1757年)を描写した版画。ロバート・クライヴとイギリス東インド会社の部隊が戦いに勝利した。

はびこる汚職と不当利得行為 当時、ロイヤル・アカデミー・オブ・アートの会員だった画家ベンジャミン・ウェストは、新たな統治者となるクライヴに、シャー・アーラムが巻物を手渡している場面を描いた。シャー・アーラムがイギリス東インド会社に対し、ベンガルの地域行政の支配権と徴税権(ディーワーニー)を付与する瞬間である。この巻物は、イギリス東インド会社のネイボッブたちをこう形容した。「我ら王家の支援を受けるにふさわしい、地位と権勢ある名士であり、貴族の中の貴族であり、傑出した戦士たちの長であり、我らの忠実な奉仕者であり、誠実な篤志家である、イングリッシュ・カンパニー」と。

 これではまるで実物とかけ離れた表現だが、イギリス東インド会社は、わざわざそのギャップを埋めようとはしなかった。統治を始めた当初、同社は汚職や不当利得で悪名を馳せた。いわゆる“金のなる木を揺する”とか、より直接的に“ベンガル略奪”と呼ばれた行為だ。黄金、エメラルド、ルビー、翡翠、象牙、トパーズ、宝石で装飾された短刀、象の鎧といった品々がイギリスへ輸送される一方、イギリス東インド会社の徴税官は、容赦のない手際で職務を遂行した。

 クライヴは23万4000ポンドの私財を携えてイギリスへの帰国を果たし、欧州で最も裕福な成り上がり者となった(だが彼は、我が世の春を謳歌したわけではない。それどころか、嫉妬深い同輩に悩まされ、金銭的な腐敗を非難された挙句、1774年に自らの喉をかき切った)。

1757年にイギリス東インド会社軍を率いたロバート・クライヴのエングレービング(銅版画)。

 1803年にムガル帝国の首都デリーを攻略すると、イギリス東インド会社はアジアのどの民族国家をも凌ぐ火力を運用することができた。また、すでにアメリカ独立戦争の一因をつくり、間もなく中国とのアヘン戦争を引き起こすほどの存在になっていた。だが、今日のメガバンクや多国籍企業と同じく、自称“世界で最も偉大な商人団体”は、市場の不確定要素に弱かった。ディーワーニーを付与されてからほんの7年で、イギリス東インド会社によるベンガルの統治は飢饉を招き、予想されていた土地収益が大幅に不足するという結果を生んでいた。同社は150万ポンドの負債を抱え、イギリス政府に対して100万ポンドの税金を滞納する羽目になった。

 同社の苦境が表沙汰になると、ヨーロッパ各地で30の銀行がドミノ倒しのように倒産し、貿易が急停止する事態になった。だが、“信用危機”という言葉が囁かれ始める前に、イングランド銀行が介入し、記録に残る史上初の巨額財政援助を実行した。その額は約200万ポンドにのぼったという。イギリス東インド会社は、破綻するには大きすぎたのだ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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