Wednesday, February 7th, 2018

THE ROARING TWENTIES
ベントレー・ボーイズの伝説

英国車史上、最も輝いていた男たち
プレイボーイで、クルマを豪快に乗り回し、毎日飲み騒いでいた特権階級の一団。
ふたつの世界大戦の狭間に自動車レース界を支配し、
イギリス中を虜にしたベントレー・ボーイズの伝説とは?
text andrew hildreth

豪快なパーティー

 1920年代後半に、ロンドンのタクシー運転手に「ベントレー・コーナー」で降ろしてほしいと頼めば、グロヴナースクエア50番地が目的地だと通じたはずである。そこはバーナート、バーキン、ルービン、キッドソンをはじめとするベントレー・ボーイズが住んでいた場所だった。数えきれないパーティーが催され、社交界の有名人や女優が出入りしていた。まだ駐車違反や飲酒運転を禁じる法律がなく、泥酔に近い状態で運転しても許された時代のことである。
 シャンパンは、レースの前後、さらにはレース中まで、ベントレー・ボーイズの人生のあらゆる局面において重要な役割を果たすものだった。ドライバーたちはレース中に疲れを感じると、シャンパンと水を絶妙にミックスさせたものを飲んで生き返った。少々度が過ぎて、酩酊状態だったために、メカニックに乗車を拒否されるドライバーもいた。ピットはシャンパン、ワイン、ローストチキン、お抱え運転手、執事たちで溢れかえり、彼らの快楽主義的なライフスタイルの延長のようだった。
 ル・マンで優勝すると、夜には祝勝会が開かれた。1927年に、ストランド街の高級ホテル、ザ・サヴォイで開かれたパーティーは有名なもののひとつである。主賓は、この年の優勝車で厳しい戦いをくぐり抜けてきたベントレーのNo.7で、このクルマがテーブルの主賓席に置かれた。
 アーデンランと呼ばれるサリー州リングフィールドにある邸宅で開かれたパーティーは、伝説になるほど豪華だった。会場はギャッツビーの世界さながらで、アルコールにまみれたショービジネス界の輩からレーシングドライバーまで、実にさまざまな人間がいた。酒宴が終わると、最高の美女たちは、自分で選んだドライバーに、自身の屋敷の門までクルマで送らせたが、女性のヘルメットの装着は必須だった。なぜならドライバーがほとんど立てなかったり、運転に集中できなかったりしたからである。

不死身の男、キッドソン

 パーティーでもレースでも全力で暴れ回っていたベントレー・ボーイズだったが、不思議なことに、死亡事故だけは回避する能力を持っていた。特に、グレン・キッドソンは“不死身の男”だった。イギリス海軍で大佐を務め、1914年にはひとつの戦闘のなかで、2隻の船に乗船し、そのどちらもが魚雷攻撃を受けた。数百人の死者が出たなか、キッドソンは助かった。指揮した潜水艦が海底で動けなくなったときも、彼の見事な操艦により浮上に成功した。
 空の上でも彼は不死身だった。1929年、乗客として乗っていた航空機がロンドンの空港からアムステルダムに向かう途中、突然炎に包まれた。彼は急降下をはじめた機体のパネルを蹴破り、服に火がついたまま脱出した。他に生存者はいなかった。キッドソンは重度のやけどを負ったものの、入院と治療により見事回復し、1930年にはバーナートと組んでル・マンで優勝を果たした。 
 しかし彼の強運も最後には尽きてしまう。ル・マンで勝利した後、キッドソンは自身の所有するロッキード・ベガに乗り、南アフリカを目指し飛行していた。しかし、南アフリカ上空で砂嵐に巻き込まれ、機体は空中分解する。彼はついに帰らぬ人となった。
 彼の死はロンドンの新聞で報じられ、それを見てふたりの女性が卒倒したという。そのうちのひとり、エセル・ウィガムは、88人との不倫と性行為を写したポラロイド写真が原因で、夫であるアーガイル公爵と離婚した悪女として知られている。そんな彼女が唯一心から愛した男がキッドソンだった。キッドソンが最後に書いた手紙は、彼女に宛てたものだった。
 バーナード・ルービンは、ル・マンで優勝した初のオーストラリア人だった。第一次世界大戦で重傷を負い、3年間の治療を経て、ようやく再び歩けるようになった不屈の精神の持ち主だ。彼はバーナートの友人として自動車レースをはじめ、1928年にはペアを組み、ル・マンで勝利を収めた。彼もまた、ル・マンを制覇した後、航空機の操縦に夢中になった。1934年にはロンドン~メルボルン間のエアレースに参戦予定だったが、肺結核を患い、1936年にこの世を去った。

1930 年のル・マンで先頭を走るバーナート。

貴重なサインが入った、1928 年のベントレー・ボーイズのル・マン優勝を祝うメニュー。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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