Monday, April 16th, 2018

‘LOOK AT THE WHO! THEY USED EXPLOSIVES! HOW DID WE GET THE REP?’
レッド・ツェッペリンが残した
クレイジーすぎる伝説の数々

かつてない画期的戦略と成功

 レッド・ツェッペリンは、強権的なマネージャー、ピーター・グラントのおかげでビジネス的にも成功した初のバンドだった。あまり知られていないが、グラントはマルコム・マクラーレンにマーケティングについて助言した人物でもある。結果、70年代半ばにパンクは一大ムーブメントを起こすことになる。
 彼は、レッド・ツェッペリンのアルバムセールスだけを追求するため、シングルを発表させなかった。また、ファンにライブチケットを買わせるためにテレビ出演を控えさせ、インタビュー取材もほとんど受けさせなかった。その結果、バンドに神秘的な存在感をもたらした。
 それまでの慣例では、コンサートプロモーターはチケット収益の50%を取り分としていたが、レッド・ツェッペリンのコンサートでは10%とし、承諾するもしないも自由とした。結果、プロモーター側はその条件をのんだ。グラントはさらに、20万ドルという当時としては異例の額でアトランティック・レコードと契約させる。彼らの音楽を聴いたことがある人間がひとりもいなかったにもかかわらず、である。彼らは、ジョン・レノンやポール・マッカートニーの8倍もの印税率で契約していたのだ。
 こうした契約面だけでなく、レッド・ツェッペリンはアルバムジャケットのアートワークについても画期的で、芸術的な側面を感じさせるものばかりだった。穴からのぞく絵が変化するようジャケット内に回転するカードを仕込んだしかけや、謎めいたシンボルが並び文字として読めないもの、6種あるうちのどのジャケットが入っているかわからないよう紙袋が被されたもの、ジャイアンツ・コーズウェイの風景と裸の子どもを組み合わせた不気味なヴィジュアルまで、実に斬新だった。
 しかし何より素晴らしかったのが、彼らの音楽そのものである。圧倒的なパワーと熱気を感じさせ、壮大かつ自由奔放なアレンジを取り入れた叙事詩的な演奏は、本物の技術があるからこそ成せるものだった。彼らは新しいものを創作する才能にも長けていた。レッド・ツェッペリンが古い時代の男らしさを体現する典型的なロックバンドだとしたら、ひとつのジャンルに括ることはできない。すなわち、彼らはブルースバンドやフォークバンドでもあったといえる。ペイジは、フォークフェスティバルでバンドが何をやるつもりか聞かれた際、「そりゃ、全部フォークに決まってるだろ」と反論したことがある。
 彼らはステージでもレコーディングでも、いつもアドリブ演奏だった。だから聴くたびに新しいバージョンを楽しめたのだ。

ガチかネタか、人気に貢献した噂

 こうした彼らのパイオニア精神も、あまりにクレイジーな噂の数々ですっかり影が薄くなってしまった。もちろんすべてが真実ではないし、すべてが嘘でもないのだろうが、ボーカルのロバート・プラントがとある思い出について語ったときの、「乱気流の中のオーラルセックス(がいかに素晴らしかったか)」という言葉に、浮世離れした彼らのライフスタイルがよく表れているかもしれない。
 コールは主張している。「すべては若者たちの遊びにすぎなかった。その多くはアルコールのせい。揶揄されるほど悪質なものではない。ツアーというのは大変なんだ。だから当時は行きすぎた行動とは思えなかった。人生はサーカスのようなもの。一生に一度のチャンスが巡ってきたときに、それを掴むか手放すかだ。俺たちはそれを確実に掴んだだけ」
 確かにその通りだった。メンバーは、バイクをホテルに搬入して廊下で走れるようにしてほしいと頼んだり、さすがにこれは応じられなかったが、3メートルのニシキヘビをリクエストしたこともある。あるツアー中にバナナダイキリしか飲まなかったペイジは、泥酔状態でステージに上がって、他のメンバーとまったく違う曲を弾いていたという。
 プラントは、バンド結成の頃に少女だったグルーピーたちが、今やセックス相手になりうる大人の女性になっていると力説していたこともあった。また、コールは議論が白熱しすぎて機内で銃を取り出したこともある。「一歩間違えれば危なかった。けど、機内で俺に弾が入った銃を手渡すバカなんていない。楽しい時代だった」と、彼は振り返る。
 しかし、もしかしたらこれらの騒動には世間のイメージをコントロールしたり操作したりするための新しいアプローチが隠されていたのかもしれない。映画監督でペイジの友人のトニー・パーマー曰く、「修道士のような」バンドメンバーたちが3時間に及ぶライブステージの後に望んだことといえば、紅茶を飲みながら新聞を読むことくらいだったという。彼らの派手な騒ぎの噂の数々は、それだけでレッド・ツェッペリンに貢献するものだった、というわけだ。コールは言う。
「すべてはあくまで伝説の一部にすぎない。いいネタになったからね。話には真実も含まれているけど、伝わるにつれ誇張されていった部分もある」
 これらの噂は今でもレッド・ツェッペリンの伝説のように語られるが、それはドすべては若者たちの遊びにすぎなかった。ラッグや酒に溺れ、名声など望まず、煩悩に溢れていた時代に絶大なチャンスを掴んだ若者たちが、単にしでかしてしまった出来事にすぎないのだ。「(ああいった行動は)ツアー中のロックバンドにとってはごくありふれたものだったんだよ」とジョン・ポール・ジョーンズは語る。
「ザ・フーだってそうさ! やつらは爆薬を使ってたんだぜ! 俺たちの名前はどうやって売れたと思う?」
 ペイジは魔術師のアレイスター・クロウリーや悪魔主義に傾倒していることを自ら公言しており、クロウリーが住んでいた屋敷まで購入していたほどだ。レッド・ツェッペリンが「悪魔の仕業」と呼ばれるようになったのは、これが原因だったのだろうか。噂の中には、明らかにくだらない邪悪なものもあった。例えば、遊び相手の女性が法的に微妙な年齢だったというものや、最も悪名高い、ボーナムとグラントがトレーラーの中でプロモーターの護衛を殴って暴行したという噂などだ。
 しかし実際には、唯一悪魔の仕業だといえるのは彼らの音楽を生み出す力だけであり、それは決して野暮なものではなかった。「ツェッペリンとしての絶対
的な自信があった」とジョーンズは語る。
「自分たちのよさをわかってた。最高の状態なら、地球上のどんなバンドよりも優れていたし、たとえ最悪の状態でも、ほとんどのバンドよりマシだったね」
 レッド・ツェッペリンは変化を導いた存在ではあるが、革命の扇動者だったわけではない。「俺たちが伝えているのは、親切心。コカインをやった後のように満たされてヘトヘトになって帰ってもらいたい」と、道徳的には問題も多かった時代、プラントは語っていた。
「ステージから見渡して、最前列全員ファックしたいと思う夜もある」

プラントと当時の妻モーリーン・ウィルソン。1973 年。

プライベートジェットでオルガンを弾くジョーンズ。

ジャガーにもたれ掛かる4人。1968 年。

1973年、サンフランシスコのケザースタジアムでのライブパフォーマンス。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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