THE SUNLIT UPLAND

モナコ大公の手腕

August 2020

 

 1956年4月19日に行われたレーニエとグレースの結婚式の模様は、映画会社のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社によって撮影され、世界に向けて放送された。レーニエにとっては抜け目のない一手だった。ハリウッドの一行がプライベートジェットでモナコを訪れることで、これまでの“いかがわしい隠れ家”のイメージを“富裕層や著名人の遊び場”へと変化させたかったからだ。その後数十年に及ぶ治世の間には、政治的策士としての力量も示した。レーニエはあらゆる出来事に打ち勝ち、領地を金融・観光の中心地へと変貌させたのだった。

 

 

結婚式で指輪を交換する様子。

 

 

 以前から特異だった小さな国土を長きにわたり手にしていたのが、グリマルディ家である。1297年、レーニエの先祖であるフランソワ・グリマルディは、フランチェスコ会の修道士の姿に変装し、男たちを率いて当時ジェノヴァ領だったロシェの門前に現れた。フランソワは守衛に対し、疲労と空腹を癒やすために宿が必要だと告げて中に通されると、修道服の下から剣を取り出して主人を手にかけたのである。大公家の紋章には今も修道士の姿で剣を振りかざす人物が描かれている。

 

 1857年にカジノを導入し、その運営組織「ソシエテ・デ・バン・ドゥ・メール」を創設することで、モナコをギャンブルの中心地として確立させたのは、レーニエの曾祖父にあたるシャルル3世だ。19世紀末になると、同公国にはベル・エポックの金がたっぷり流れ込み、モナコ人は所得税を払わなくて済むことになった。その結果、ヨーロッパ中の富豪たちがモナコに移住したがるようになった。

 

 モナコの立憲君主というのは、安易に考えてよい存在ではなかった。大公は神授の権力を持つといわれ、あらゆる法律および立憲の責任者でもある。レーニエ3世は1949年、25歳のときにグリマルディ家出身で31人目のモナコ統治者となった。彼の興味の対象は、いかにも王侯貴族のプレイボーイらしかった。

 

 1903年式のド・ディオン・ブートンやイスパノ・スイザといった100台におよぶクルマのコレクション、フランス人女優と浮名を流した恋、そしてスキーやモーターボートといったアウトドア系の趣味である。しかし、『Grace of Monaco(原題)』によると、こうした気ままなイメージは誤解を招くものだったという。「彼の人柄は自由奔放とは真逆。人生を価値ある何かで満たそうと懸命だった」。

 

 

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