THE SUNLIT UPLAND

モナコ大公の手腕

Wednesday, August 26th, 2020

 

 その“何か”こそ、まるで一企業のような一国だった。基金の設立、バレエ学校の創立、病後療養所の建設などに奔走し、多忙な現代的プリンセスの象徴となった妻グレースの一方で、レーニエも家業のCEOとなるべく歩み始めた。最初の試練は1958年に訪れた。反抗的な国民議会が憲法改正を求めてきたのだ。これに対してレーニエは、議会が国家の行政上および政治上の活動を妨害したと主張し、憲法を停止させるという断固とした対応を取った。もしモナコという企業の株式があったら、この時点で一気に値が下がっただろうが、レーニエは新しい立法府を設けることで情勢を安定させた。

 

 ところが間もなく、さらに重大な試練に直面する。モナコを租税回避地として利用するフランス人が増加したことにより、シャルル・ド・ゴール仏大統領がモナコへのすべての道路に税関検査所を設置し、“窒息させる”と通告してきたのだ。そこでレーニエは、過去5年間にモナコに移住してきた全フランス国民がフランスに対して完全な納税義務を負うことを示した協定を導入。ド・ゴールが矛を収めたことでレーニエの勝利とみなされた。

 

 

レーニエとオナシス(1961年)。

 

 

 しかし立ち向かうべき相手はまだいた。1950年代を通して支配圏を着実に広げてきたオナシスである。オナシスはレーニエの人脈づくりにおいて八面六臂の活躍をしてきたが、同時にソシエテ・デ・バン・ドゥ・メールに多額の投資を行い、株式の52%を所有するまでになっていた(対するレーニエは2%)。

 

 オナシスは「世界に3,000人の裕福な男性がいる限りモナコは繁栄するだろう」と言って、モナコが退廃的な異種文化圏であり続けることを望んだ。だがレーニエは、中流階級の人々や租税を回避しようとする実業家らにもモナコを開放すると決めていた。彼は国民議会を説得してソシエテ・デ・バン・ド・メールの株を発行し、政府に購入・保有させることで、オナシスの持ち株比率を33%未満にまで激減させた。

 

 さらに効果的だった措置は、モナコでのハト狩りを禁止する法令だ。ハト狩りはオナシスがしょっちゅう賭けをしたスポーツだった。気分を害したオナシスは、1965年にモナコを去る。彼の屈辱を幾分和らげたのは、持ち株と引き換えにモナコから受け取った1000万ドル。レーニエの根気強い“経営”によって、株式の価値は10倍に跳ね上がっていた。

 

 

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