THE LEADER OF THE PACK: WOOLF BARNATO

ベントレー・ボーイズのリーダー:
ウルフ・バルナート

December 2019

 

 しかし、バルナートがベントレーで達成した、最も記憶に残る勝利は、公式のタイトルレースではなかった。そのスタート・グリッドはカンヌのラ・クロワゼットで、ル・マンの南東約400マイルに位置していた。1930年、ベントレー・ボーイズが快楽的なプレイボーイの楽園、ホテル・カールトンの豪華なスイート・ルームに落ち着いた頃、ひとつのトピックが繰り返し語られていた。定期的に戦前のカレーとリビエラを結んだ豪華列車“ブルー・トレイン”についてである。

 

 1930年の初めの数か月頃、ローバーとアルヴィス社製のクルマがコート・ダジュールからカレーまでの間で、ブルー・トレインを打ち負かしていた。競争心の激しいバルナートは、このようなPRをしているライバルの自動車メーカーに腹を立てていた。

 

 バルナートは友人にそそのかされ、列車がカレーに到着する前にベントレー・スピード6でイングランドに着くことができるかどうか、100ポンドの賭けをした。それが単なる酒場の冗談ではではないことが明らかになると、賭けを受けるものは誰もいなくなった。

 

 しかし、賭けはもはや金を得ることが目的ではなくなっていた。バルナートは自分自身に挑戦しようと思った。それは単なる賭けではなく、プライドの問題であった。 彼が狡猾だったのは、ブルー・トレインのルートそのままをたどることをしなかったことだ。また、彼は鉄道の時刻表を調べ、列車が海岸の目的地に着くまで、マルセイユで1時間停車し、その後パリで3時間半停車することを調べ上げた。

 

 彼は4時間ごとにガソリン補給を手配し、補給を逃した場合に備えて、ガソリン缶で満たしたブーツを携行した。それから彼は、運転に疲れたときのために、同じエリアで休暇をとっていたデール・ボーンと呼ばれる有名なアマチュア・ゴルファーを、コ・ドライバーとして選んだ。

 

 

 1930年3月13日の午後に、カールトン・バーへチャレンジ前の飲み物を飲みに行ったとき、バルナートは挑戦への準備は万端だと思っていた。その後彼は、豪雨、迷走するガソリン・トラック、低い雲、タイヤのパンクなどに悩まされたが、翌朝午前10時30分にはブローニュの港に到着した。

 

 その後、すでに賭けに勝った彼は、イギリスへのゆったりとした航海を楽しみ、着実にロンドンへと向かった。ブルー・トレインがカレーに到着する4分前に、彼はセント・ジェームズ・ストリートのジェントルメンズ・クラブ“コンサーバティブ・クラブ”の外にクルマを駐車していた。

 

 ベントレーの伝説となったこのエピソードは、バルナートを称賛し、お金では買えないソサエティでの名声を与えた。

 

 彼の祖父は、ロンドンのスラム街の古着屋だったかもしれない。彼の父親は、南アフリカのダイヤモンド鉱山ブームの成金であったかもしれない。しかし、ウルフ“ベイブ”バルナートは、彼の勇敢な行いのせいで、英国のチャレンジングなヒーローとして、永遠に人々の心に留まるだろう。

 

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