CAPTAIN IMMORTAL: FRANCIS CURZON

不滅のキャプテン:
フランシス・カーゾン

Monday, December 30th, 2019

彼は1000人の現代のドライバーよりも多くの、

コースアウトとマシントラブルを経験した。

しかし5代目ハウ伯爵フランシス・カーゾンは、

臆することなく何度でもチャレンジを繰り返した。

 

by nick scott

 

 

1928年のRAC国際ツーリストトロフィーレースにて。彼自身の車に乗るカーゾン。

 

 

 メイフェアのパークレーンからバークレースクエアの間に、カーゾンストリートはある。通りの名はカーゾン家から付けられた。彼らのモットーは“カーゾンは持つ、カーゾンは所有する”ということである。

 

 そして第5代ハウ伯爵、フランシス・リチャード・ヘンリー・ペン・カーゾンついての評判は、実に力強く勇敢な男だったということになっている。

 

 レーシング界の長老として知られた彼は、44歳という高齢でブガッティタイプ43のコックピットでトラック・デビューを果たした。それまでに、彼はファミリーの伝統に則って海軍で兵役に就き、第一次世界大戦中には大隊長を務めた(彼はジョージ5世の補佐官のひとりとして、大敗したガリポリの戦いにも参加した)。

 

 

 デビュー・レースは、1928年のニュータウンアーズでのアイリッシュ・ツーリスト・トロフィーで、ハウは燃料タンクが破裂してリタイアするまで、平均112km/hのラップタイムを叩き出した。

 

 ハウは、イートン校、オックスフォードのクライスト・チャーチで教育を受けた。

 

 1918年の総選挙では、保守党より出馬し、バタシーサウスの議席を獲得していたが、議員生活に別れを告げ、本格的にレーシングキャリアを始めた、ル・マン24時間レースに毎年挑戦し、1931年にタルボ、アストン・マーティン、メルセデス・ベンツの牙城であった同地で勝利した。

 

 これは今では聞かれなくなった、モータースポーツの黄金時代のロマンティックな逸話だ。彼の運転したアルフォロメオは、その前日、ベンゾールを使ったことによって、ピストンの焼き付きを起こし、徹夜で修理されたばかりだったのだ。

 

 

 それ以降、ハウの勝利はいつもドラマティックだった。その後すぐに、8台ものブガッティがクラッシュしたディエップのグランプリで、1.5リットルのドラージュを駆って勝利した。そのドラージュは、1933年のモンツァでの事故で大破した(しかしハウは無傷だった)。

 

  彼は1935年ミッレ・ミリアでMGマグネッテを駆って出場しクラッシュ、その数年後には英国ブルックランズ・サーキットにおいて、タイ王国のプリンス・ビラとポールポジションを争っているときに、キャリアの中で最もひどい事故を起こした。しかし翌年、同じサーキットで174km/hという個人としてのベストラップを記録した。

 

 レースをしていない時のハウは、フィアット500でウエストミンスターの上院に飛び込み、レーシングカラーを纏ったまま論争に加わっていた。

 

 第二次世界大戦によって彼のレースキャリアが終わるまでに、ハウはル・マンとミッレ・ミリアでの勝利に加えて、英国モーターレース・チャンピオンに5回もなった。1930年代半ば、タイム誌は、彼のレーシングカーのコレクションを“ヨーロッパで有数の素晴らしさ”と評した。

 

 

 彼はまた、ベントレー・ボーイズと行動をともにしていた。その一人は、ル・マンで優勝したバーキン卿だった。彼は1964年に亡くなるまで、1928年にダドリー・ベンジャフィールドと共同設立したブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブの会長を務めた。

 

 彼は従兄弟のメアリー・カーゾンと結婚し、30年間を過ごした。娘のサラ・カーゾンはF1ドライバーのピアス・カレッジと結婚し、1970年のオランダ・グランプリでのカレッジの死後、動物園とギャンブル・クラブのオーナー、ジョン・アスピノールと結婚した。

 

 第二次大戦後、ハウは500ccフォーミュラレースの支援に尽力し、スターリング・モスなどの偉人を輩出した。1948年にシルバーストーンで行われた、最初のイギリス・グランプリの開催に尽力した。ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブは彼の死後、その功績を称えて“アール・ハウ・トロフィー”を最も名誉ある賞のひとつとした。

 

 ハウ卿の記憶は、いくつものつまらないゴシップや、彼の血統によって喚起されるものではない(彼のひ孫のクレシダ・ボナスはハリー王子の元恋人だった)。彼の最大の遺産は、モータースポーツが冷たいテクノロジー一辺倒になる前の、熱きスピリットを思い出させてくれるところにある。