THE BALLAD OF JUSTIN AND TWIGGY

ジャスティンとツイッギーのバラード

July 2022

英国人モデル、ツイッギーは1960年代を代表するアイコンであり、世界初のスーパーモデルである。

彼女とその恋人、ジャスティン・デ・ヴィルヌーヴは、どのようにして出会い、愛し合い、そして別れたのだろうか?

デ・ヴィルヌーヴの貴重なインタビューをお届けする。

 

 

by stuart husband

contemporary photography andy barnham

 

 

 


世界初のスーパーモデルであるツイッギーと、彼女のマネージャーから夫になったジャスティン・デ・ヴィルヌーヴ(1966年、ロンドンにて)。

 

 

 

「自分自身を何と表現したらいいだろう?」

 

 ジャスティン・デ・ヴィルヌーヴは、そう言いながら考え込んだ。しばらく考えてから、彼のトレードマークともいえるニヤリとした笑いを浮かべ、「まぁ、チャンサー(チャンスを掴む人)だろうな」と答えた。

 

 イエスともノーともいえる。確かに、デ・ヴィルヌーヴはその人生において、さまざまなチャンスを掴んできた。しかしこの言葉は変幻自在な男の本質を捉え損ねている。彼はボクサー、ボディガード、ブックメーカー、ヌード映画のセールスマン、アンティーク・ディーラー、美容師、歌手、インテリア・デコレーター、そして何より写真家であった。

 

 “アイコニック”という言葉は、今日では使い古されているが、1973年のデヴィッド・ボウイのアルバム『ピンナップス』のジャケット用にデ・ヴィルヌーヴが撮影した写真こそ、この言葉に相応しいだろう。裸で逆立てた髪のボウイは、中性的なメイクをし、こちらを睨みつけている。その横にはデ・ヴィルヌーヴの恋人だったツイッギーが、仮面のような顔をしてボウイの肩にもたれかかっている。

 

 彼は1965年にツイッギーを「発見」し、その後10年間、彼女を操る催眠術師のように振る舞った。そしてコックニー訛りのティーンエイジャーを、世界初のスーパーモデルへと変身させたのだ。

 

「俺たちは“ツイッギーとジャスティン”だった」。彼はニヤリと笑った。

 

 

 

 

 

 

「ひとつのパッケージのようなものだったんだ。彼女は俺の言うことを聞き、俺は自分の時間とエネルギーのすべてを彼女に捧げた」

 

 確かにデ・ヴィルヌーヴの初期のほとんどのファッション写真は、ツイッギーをモデルとして使っている。

 

「俺たちがシーンの中心にいたのは本当だ」。デ・ヴィルヌーブはそう言う。

 

「それまで写真なんて撮ったことがなかったし、ファッション業界のことも何も知らなかった。でもどんな分野でも、成功するためにはその役になりきることが大事だとわかっていたんだ」

 

 イーストロンドンのハックニーで、ナイジェル・ジョン・デイヴィス(デ・ヴィルヌーヴの本名)は生まれた。父はレンガ職人、母は主婦であった。15歳で学校を辞め、タイガー・デイヴィス(最初の別名)という名でボクサーとして生計を立てるようになった。

 

 若き日のデイヴィスは、世の中に出ていくに連れて、イースト・エンドのさまざまな悪党たちにボディガードやオークションの呼び込みとして雇われ、最終的には当時のイースト・エンドで勢力を誇っていたロニーとレジーという双子のギャング、クレイ兄弟の下で働くことになった。

 

「何も悪いことはしていないよ。セキュリティ関係とマーチャンダイジングの仕事をちょっとしただけさ」

 

 

 

 

 

 デ・ヴィルヌーヴがロニーとレジー、その仲間から学んだ最も重要なことは、プレゼンテーションの方法である。

 

「当時、ギャングはいつも着飾っていたものだった。ロンドンの労働者階級であれば、誰でもギャングに憧れたものさ」

 

 1950年代半ば、デ・ヴィルヌーヴは不正に得た収入の大半をソーホーのブティックに費やしていた。

 

「俺は家というものを持ったことがないが、常に上等のスーツは持っていた」

 

 有名な美容師ヴィダル・サスーンの最初の結婚式でケータリングを提供したとき、彼は「見かけがすべてだ」と確信した。ワインは「ペンキの剥離液のような臭いがする怪しげなもの」だったが、高級ラベルに貼り替えて出すと、味にうるさいはずのゲストたちが皆納得したのだ。

 

 そして彼は、サスーンのアシスタントとして雇われることになる。まだ10代だった彼は、ボンドストリートにあるサスーンの店で、下働きをすることになった。彼はそこでクリスチャン・サン-フォジェと名乗った。

 

「美容院で働くには、フランス風の洒落た名前が必要だと思ったんだ」

 

 

 

 

 

 

 友人のレオナールのサロンで、彼は人生を変えることになる女性と出会う。

 

「俺の兄がそこで働いていて、ロンドン郊外ニースデン出身の15歳の女の子が毎週土曜日に働きに来ていて、モデルになりたがっていると話していたんだ」

 

 レスリー・ホーンビー(ツイッギーの本名)との最初の出会いについて、デ・ヴィルヌーヴはこう語っている。

 

「彼女はとても痩せていて、天使のような顔と白鳥のような首を持っていたのに、不釣り合いなコックニー訛りで、とても驚いたことを覚えている」

 

 ホーンビーの個性を強調するために、デ・ヴィルヌーヴはレオナールに、彼女をボーイッシュなショートヘアにするよう頼んだ。

 

「それは素晴らしく似合っていた」と彼は振り返る。

 

「メイフェアの大きなサロンにいた誰もが、彼女を見て息を呑んだ。その時、俺たちは何かを掴んだと感じた。俺は彼女の撮影を組まなければならないと思った」

 

 

 

 

 ホーンビーのニックネームは、その仕事が片付いたときに生まれた。

 

「兄が彼女のことをツイッギー(小枝の意)と呼んでいたんだが、カメラマンのバリー・ラテガンに彼女の最初の写真を撮ってもらったときに『それがいい、彼女の名前にしよう』とラテガンが言い出したんだ」

 

 このときまでに、彼の新しい名前も決まっていた。

 

「俺はインテリア・デコレーターの仕事もしていた。もちろん知識はなかったが、いい家の内装はたくさん見てきたから、なんとなく話はできたんだ。だからそれに相応しい名前が必要だった」と彼は言う。

 

 「ジャスティンという名前は気に入っていたんだが、ある人がフランスの町の名前を苗字にしたらどうかと言ったんだ。俺は『ヴィルヌーヴ(新しい町)だって? ハーロウのニュータウンのようなものか?』と返した。それでヴィルヌーヴにしたんだ」

 

 ふたりは、ポップカルチャーをリードする存在となっていく。ラテガンが撮影した写真を見たデイリー・エクスプレス紙は、ツイッギーを“66年の顔”と評した。デ・ヴィルヌーヴはすぐにツイッギーの彼氏になった。

 

「俺は25歳で彼女は15歳だったからちょっと怪しかったけれど、彼女の両親は受け入れてくれたよ」

 

 そしてマネージャー兼プロデューサーとして、彼女のイメージをコントロールしようとした(それが彼女の天性のものだったとしても)。

 

「デヴィッド・ベイリー、テレンス・ドノヴァン、ブライアン・ダフィーなどのカメラマンはスタジオから俺を追い出そうとした。なぜなら俺はエージェントではなくマネージャーで、どこへでもついて行ったからだ。そこで俺は、自分で撮影をアレンジして、写真を撮って、パッケージとして雑誌に売ろうと思った」

 

 しかしもちろん、デ・ヴィルヌーヴは、写真家としての下積みを積んできたわけではない。

 

「でも俺は、リチャード・アヴェドンやバート・スターンが撮影しているのを見たことがある。何人ものアシスタントが下準備をし、すべてをセットアップするんだ。彼らの仕事といえば、最後に階段を下りてきて、シャッターボタンを押すだけ。これなら簡単そうだと思ったんだ」

 

 

 

 

 

 写真家のアヴェドンはデ・ヴィルヌーヴのスタジオ設立を支援した。その後8年間、彼はツイッギーの“ハウス・フォトグラファー”として活躍した。さらには彼女の父がかつて言ったように「彼女が寄りかかる岩」のような役割を担ったのである。

 

「ツイッギーを起用するには、相当なお金が必要だった」とデ・ヴィルヌーヴは回想する。また、ツイッギー人形、服、化粧品などを販売するツイッギー・エンタープライズを設立した。それらの収益でデ・ヴィルヌーヴは実に裕福な生活を送っていた。トミー・ナッターに一度に5着のスーツを注文し、家には執事、付き人、運転手、イタリアンシェフを抱え、ロールスロイス、アストンマーティン、ランボルギーニ、フェラーリ、マセラティなど、60年代の名車を1年間に23台も新車で乗り継いだ。

 

 ツイッギーが1974年の映画『W』で共演した俳優のマイケル・ウィットニーに心変わりし、デ・ヴィルヌーヴのもとを去ったことで、ふたりの関係は突然終わってしまった。かつて「パッケージとしてやってきた」ジャスティンとツイッギーは、その後何十年も口をきいていないのだ。

 

「本当に残念だ。彼女のことを恨んだりはしていないのに。彼女はなぜ俺を責めるのだろう? 俺にはわからない。俺は門番のようなもので、大嫌いだった麻薬や危ないものから彼女を守っていただけなんだ」

 

 そう言って、お手上げだといったジェスチャーをした。

 

「たぶん彼女は、俺がとんでもない浪費家だと思っていたんだ。でも、そういうものなんだよ。悪銭身につかずってやつさ。俺の知ってる悪党たちは、いつも大量の札束を持ち歩いて、みんなに酒をおごって、一週間後にはまた貧乏になるんだ。俺はそうやって育ってきたんだよ」

 

 デ・ヴィルヌーヴに、自らの伝説についてどう思うかと尋ねると、彼はまたニヤリと笑ってこう言った。

 

「結局のところ、誰も俺のことなんか気にしちゃいない。そうだろう? 俺は俺の人生を好きなように生きて、好きなように楽しんだ。あいつはどうにかして逃げ切ったということでいいじゃないか?」