NATURAL MYSTIC

レゲエの王様、ボブ・マーリー

April 2024

「ハイ・タイド・オア・ロウ・タイド」のジャケット。

 カリスマ的なマーリーのイメージは、彼が1981年に36歳の若さで亡くなったことにより不動のものとなった。死後にリリースされたアルバム『レジェンド』はもとより、Tシャツ、ポスター、スピーカー、ターンテーブル、スケボーデッキ、大麻オイルのアロマキャンドルといったあらゆるグッズも、そのイメージを強化した。2016年の『フォーブス』誌の計算によると、マーリーの収入は2100万ドルで、死亡したセレブリティの稼ぎ出す額としては同年の6位。彼の音楽やもろもろの関連商品の無許可販売は、年間5億ドル以上を生み出していると推定される。名声や富に関心がなく、遺言書も作らずに亡くなったマーリーは、そんな将来を*バビロンの力に対する降伏と見なしたことだろう。ラスタファリ運動において、バビロンとは暴虐なシステムを指す用語であり、ベンチャービジネス投資はその代表格だからだ。息子スティーヴンに対する彼の最後の言葉は、「金で命は買えない」だった。

差別を受けた貧しい幼少期 ボブ・マーリーほど充実した人生は確かに金では買えない。彼は1945年にジャマイカのセント・アンという田舎の教区で生まれた。父ノーヴァル・マーリーは60歳の白人で、ジャマイカ駐屯の英国海軍大尉。妻セデラは17歳のジャマイカ人だった。ふたりは別居状態に近く、ノーヴァルは1955年に心臓発作で亡くなるまで妻子にはほとんど会わなかった。人種の異なる両親を持つボブは両人種から差別を受けたが、そんな侮辱も平静に受け止めたようだ。セデラは息子のことを「遊び心があり、愛情豊かで協力的」とみつつ、「いつも本当の気持ちを隠しているようにみえた」と語っていた。幼いボブは機転が利く一方、友人たちは彼がはにかみ屋だったと口を揃える。

 ボブが8歳のとき、母親は自分の小さな食料雑貨店を手放して、キングストン郊外にある公営住宅地域トレンチタウンへ引っ越した。“ガバメント・ヤード”と呼ばれたこの地には、今ではボブ・マーリー博物館が建っている。ボブはサッカー場として使われていた空き地でタックルをするのが好きだったため、後に自身のレーベル名となる“タフ・ゴング”というあだ名がついた。中等学校の卒業後は、溶接工の見習いをしていたが、作業場から飛んできた鋼鉄の欠片が目に入り込む事故に遭い、短期間で辞めることになった。そしてその後、ミュージシャンを目指すこととなる。

*バビロン = 権力者が弱い立場の人間を奴隷のように扱い、富や利益を搾取・独占する様子。ボブ・マーリーはこれを「バビロン・システム」と称し、不条理な社会からの解放を訴えた。

1980年の公演。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 37
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