Thursday, April 19th, 2018

‘WE GOT A CALL SAYING THE FAMILY BUSINESS HAD BEEN ATTACKED.
MY LIFE IN LONDON STARTED THEN’
祖国を追われ、シガーに救われた男

「家業の会社が襲撃されたという電話を受け、ロンドンで再出発しました」
エドワード・サハキアンは、革命中のイランから亡命して、
いかにして世界的に有名なシガーショップ“ダビドフ・オブ・ロンドン”を立ち上げたのか。
text tom chamberlin
photography kim lang

 6キロのキャビア、20キロの米、そして1着のタキシード。それだけを持って、エドワード・サハキアンが家族とともにイランからロンドンにやって来たのは、1978年のことだった。それから40年経ったいま、 彼はロンドンのラグジュアリーシーンにおける、カルチャーアイコンになっている。
 世間は理不尽だ。地道に努力し成し遂げられた偉業は、たいてい評価されないのに、リアリティ番組で騒げば、マルチメディアで注目されて、億万長者になれる。でも今回、世間もたまには優れた業績を、正当に評価してくれるということを示す出来事があった。キューバで開催されたハバノス・フェスティバルで、その年、葉巻業界に最も貢献した人物に与えられる「ハバノス・マン・オブ・ザ・イヤー」にダビドフ・オブ・ロンドンのエドワード・サハキアンが選ばれたのである。
 エドワードは同業者から人気や尊敬を集める成功者だが、人間的にも親切で寛容なすばらしい人物だ。彼を私に紹介してくれたのは、同アワードを2007年に受賞した、作家・ライターのニック・フォルクスだ。めったに人を褒めないニックが賞賛していたので、会う前から特別な人だと思っていた。
 実際、エドワードと息子のエディ(父親に引けを取らないほど情熱的な男で、共同経営者でもある)のおかげで私はシガー愛好家になり、葉巻のことをもっと知りたい、そこに秘められた謎や喜びを解き明かしたいと思うようになった。
 しかし、エドワードがどうやって今の地位を築いたのかは知らなかった。彼はどうして、シガーに人生を捧げることになったのだろうか? 彼はこれまでに何を学んできたのだろうか? そんな話を聞くためにロングインタビューを敢行した。

最初は1本のパイプから

「最初はパイプから入りました。まだ16歳と若く、テヘランに住んでいた頃のことで、今でもよく覚えています。ネクタイや帽子、時計といった高級品を扱う店の前を通りかかると、ウインドウに並ぶ商品の中に、1本のパイプがありました。シガレットには興味がなくて、吸ったこともなかったのに、なぜかこのパイプには心を惹かれたのです。何カ月も迷いましたが、思い切って小遣いをはたき、このパイプを買いました。買った後になって、吸い方を知らないことに気づきました。
 23歳の頃、レバノンから来た友人がシガーを1箱プレゼントしてくれました。ガラス管に入ったパルタガス No.10 で、もう生産されていないものです。礼儀として1本取り出し、朝10時頃でしたが、その場で吸いましたよ。苦味が強くて、好きになれませんでしたね。それからわずか数カ月のこと、ゆっくりとランチを取った後で他のタバコを切らしていることに気づき、シガーの箱があったことを思い出しました。そこでもう一度吸ってみたところ、実に美味しかったのです。まさに完璧でした。
 数週間後、ジュネーブに行くことになりました。すると、ある友人からダビドフというシガーショップに行って、ダビドフ・シャトー・ディケムを1箱買ってきてほしいと頼まれました。ダビドフに行ってみれば、そこは愛煙家にとって天国のような店でした。頼まれたものを見つけ、自分用にも1箱購入しましたが、あまりにも強くて好きになれませんでした。
 6カ月後、ダビドフを再訪して、店にいた男性に話しかけました。そのときは知りませんでしたが、話しかけた相手はジノ・ダビドフだったのです。『このダビドフ・シャトー・ディケムを吸ってみたのですが、強すぎて』と言ったところ、彼は『ええ、これはストロングタイプのシガーなんです。私にお任せください』と言い、ダビドフNo.2を持ってきてくれました。これが、葉巻にハマるきっかけでした。
 もっとも、その時点では、シガーは単なる趣味にすぎませんでした。転機が訪れたのは1978年。イラン革命が勃発し、私は一時的にロンドンに逃れました。カバンに入っていたのは6キロのキャビア、20キロのイラン米、タキシードだけでした」

ダビドフ・オブ・ロンドンのウォークイン・ヒュミドールでダビドフNo.2をテイスティングするエドワード・サハキアン。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 18
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