FULL MARQUIS: ALFONSO DE PORTAGO

フル・マーキス:
アルフォンソ・デ・ポルターゴ

December 2019

 

 そして、1957年5月12日、ミッレミリアでの運命の日が来た。ミッレミリアは、1000マイルにわたるイタリアのオープンロード耐久レースだ。

 

 いつになくナーバスになっていたポルターゴは、ナビゲーターがいても、どんなコーナーがあるかまったくわかなないコースを、そんなに長く走るのは危険すぎると心配していたが、最終的にはコ・ドライバーのエドモンド・ネルソンと一緒にレースに出場することにした。

 

 ポルターゴが、3位でロンバルディアのチェルロンゴとグイディッツォーロの間の直進道路を時速240kmで走行していたとき、フェラーリ335 Sのタイヤがバーストした。

 

 クルマはポルターゴとコ・ドライバーのネルソンを乗せたまま、運河の上に激突し、その勢いで飛び戻り、9人の見物客をひき殺した。

 

 コンクリート製のマイルストーンはえぐられ、群衆の中に突っ込んで、2人の子供が死亡した。ポルターゴ自身の遺体は、フェラーリの下で、真っ二つになって発見された。

 

 

 

 

 目も眩むような存在に対する、なんと悲しい、暴力的な終わり方だろうか。まるでジェームス・ディーンのように、ポルターゴは1950年代に、20代で自動車事故によって亡くなった。

 

 ディーンのように、彼は“アラート”に抵抗し続けた(俳優アレック・ギネスは、彼の死の1週間前に、そのポルシェ・スパイダーを運転し続ければ、お前は死ぬとディーンに言っていた)。

 

「私は事故では死なないだろう。私は老いて死ぬか、もしくは何かの冤罪に問われて死ぬのではないだろうか」

 

 不可能なことをしようとすれば、クレイジーにならざるを得ない。彼のキャラクターは、周囲と自らを破滅させるものだったが、彼のバイタリティが飛び抜けたものだったことは間違いない。

 

「死ぬまでの、すべての瞬間が人生だ」

 

 アルフォンソ・デ・ポルターゴは、28年の間、輝かしい人生を生き抜いた。

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