FULL MARQUIS: ALFONSO DE PORTAGO

フル・マーキス:
アルフォンソ・デ・ポルターゴ

Thursday, December 26th, 2019

彼が人生を最大限に生きたと言うのは、控えめな表現だ。

アルフォンソ・デ・ポルターゴの人生は、

まさに破天荒というに相応しいものだった。

 

by ed cripps

 

 

愛車ランチア・フェラーリD50をチェックするアルフォンソ・デ・ポルターゴ。フランス・グランプリ、ランスにて(1956年)

 

 

 彼は、スペインのジョッキー、ボブスレー選手、飛行家、ポロ・プレイヤー、ハイアライ(バスク地方発祥の球技)のエキスパート、レーシング・ドライバーだった。20世紀を代表するハンサムな貴族で、グランドナショナル、F1、冬季オリンピックのすべてに挑戦した。

 

 彼のフルネームは、アルフォンソ・アントニオ・ビチェンテ・エドゥアルド・エンジェル・ブラス・フランシスコ・デ・ボルハ・カベサ・デ・ヴァカ・イ・レイトン。略してマーキス・デ・ポルターゴだった。

 

 彼は、大戦後に中年となったドン・キホーテが生きていたら、きっとそうなりたがるような男であり、彼自身が一種のドン・キホーテでもあった。自分自身の溢れ出る空想力によって、死を迎えることになった点で、ドン・キホーテに似ていた。

 

 

 

 

 ポルターゴの血統は本物の貴族であった。彼の祖父はマドリードの知事であり、父親はスペインで最高のゴルファーで、かつてモンテカルロのカジノで200万ドルを獲得した大胆なギャンブラーだった。スペインの前王であるアルフォンソ13世は彼の名付け親だった。

 

 彼の伝記によると、彼は何にでも手を出し、そして何でもできたようだ。 17歳のときには、ロンドンの橋の下を飛行機でくぐれるかどうかに500ドルを賭け、これに勝った。彼は“ジェントルマン・ライダー”としてグランドナショナルに2回参戦した。

 

 1956年、彼はいとこたちをかり出して、冬季オリンピック初のボブスレー・スペイン代表チームを組織し、見事に4位に輝いた(映画『クールランニング』を思わせる話だ)。

 

 オートスポーツ・マガジンの創立者であるグレゴール・グラントは、「もし彼が試みれば、彼は世界一のブリッジ・プレイヤーにもなれたし、最高の兵士にもなれたし、偉大な作家にもなれただろう」と語った。

 

 しかし、アルフォンソが見出した究極の目標はレーシング・ドライバーだった。ルイジ・チネッティ(フェラーリの米国における輸入業者)と出会い、フェラーリと契約したのだ。1953年には公道レース、“カレラ・パンアメリカーナ”に挑戦し、その年の終わりには、プライベーターとしてフェラーリ・スポーツで、耐久レース“1000 kmブエノスアイレス”に出場した。

 

 彼はすぐに、6つの有名なレースで1位を獲得した。それらはツール・ド・フランス自動車レース、ポルトガル・グランプリ、ナッソー・ガバナーズ・カップ(2回)などであった。

 

 彼のリスクの高い、アグレッシブな運転スタイルは、ブレーキ、クラッチ、トランスミッションに大きな損害を与えたため、レースを終えるために数台の車が必要になることがよくあった。

 

 必然的に次のステージはF1となり、彼は5つのグランプリに出場し、1956年にシルバーストーンで2位となった。1年前の同じコースで、彼は時速220km以上出しているときに、コース上のオイルで滑り、車のコントロールを失った。

 

 彼は車から投げ出され、一瞬で死んでいたかもしれなかったが、足を骨折しただけで済んだ。彼はそんな“死の前兆”を無視していた。

 

 

 当然のことながら、彼は、若いときから女遊びが激しく、それ故に、他のドライバーからは嫌われていた。わずか20歳で、彼はキャロル・マクダニエルと結婚した。

 

 彼らは2人の子供をもうけたが、アルフォンソはすぐに離婚を企て、今度は11歳年上のファッションモデル、ドリアン・リーとメキシコで結婚証明書を合法化させようとした。 彼には3番目の恋人もいて、彼女は彼がキスをした最後の女性となった。

 

 『カー・アンド・ドライバー』誌によると、彼の最後のレースにおける、ローマのチェックポイントで、彼はブレーキをかけ、クルマを止め、彼女を待って、彼女にキスをし、彼女を腕に抱きしめたという。その女性はメキシコの女優、リンダ・クリスチャンで、スクリーンでゾロを演じた男、俳優タイロン・パワーの元妻だった。

 

 そして、1957年5月12日、ミッレミリアでの運命の日が来た。ミッレミリアは、1000マイルにわたるイタリアのオープンロード耐久レースだ。

 

 いつになくナーバスになっていたポルターゴは、ナビゲーターがいても、どんなコーナーがあるかまったくわかなないコースを、そんなに長く走るのは危険すぎると心配していたが、最終的にはコ・ドライバーのエドモンド・ネルソンと一緒にレースに出場することにした。

 

 ポルターゴが、3位でロンバルディアのチェルロンゴとグイディッツォーロの間の直進道路を時速240kmで走行していたとき、フェラーリ335 Sのタイヤがバーストした。

 

 クルマはポルターゴとコ・ドライバーのネルソンを乗せたまま、運河の上に激突し、その勢いで飛び戻り、9人の見物客をひき殺した。

 

 コンクリート製のマイルストーンはえぐられ、群衆の中に突っ込んで、2人の子供が死亡した。ポルターゴ自身の遺体は、フェラーリの下で、真っ二つになって発見された。

 

 

 目も眩むような存在に対する、なんと悲しい、暴力的な終わり方だろうか。まるでジェームス・ディーンのように、ポルターゴは1950年代に、20代で自動車事故によって亡くなった。

 

 ディーンのように、彼は“アラート”に抵抗し続けた(俳優アレック・ギネスは、彼の死の1週間前に、そのポルシェ・スパイダーを運転し続ければ、お前は死ぬとディーンに言っていた)。

 

「私は事故では死なないだろう。私は老いて死ぬか、もしくは何かの冤罪に問われて死ぬのではないだろうか」

 

 不可能なことをしようとすれば、クレイジーにならざるを得ない。彼のキャラクターは、周囲と自らを破滅させるものだったが、彼のバイタリティが飛び抜けたものだったことは間違いない。

 

「死ぬまでの、すべての瞬間が人生だ」

 

 アルフォンソ・デ・ポルターゴは、28年の間、輝かしい人生を生き抜いた。