THE MOST RAKISH CYCLISTS IN HISTORY

最もスタイリッシュだったサイクリストたち

August 2022

タイトなウエアに身を固め、美しいバイクを操り、風を切って走る。

サイクリングは実に欧州的でRAKISHなスポーツだ。

史上最もカリスマ的かつスタイリッシュなサイクリストたちをご紹介しよう。

 

 

 

by FREDDIE ANDERSON

 

 

 

1989年のツール・ド・フランスでフランスから出場したローラン・フィニョン。1983年・1984年のツール・ド・フランスにおいて総合2連覇を達成した。

 

 

 

 プロのサイクリング競技、特にツール・ド・フランスは、肉体的に最も過酷なスポーツのひとつである。出場選手の脚の上下運動はスムーズでリズミカル。さながら競走馬のサラブレッドのようだ。

 

 自転車競技は視覚のスポーツでもある。ピレネー山脈の奥深く、のどかな小さな村々を、色とりどりのジャージに身を包んだ選手たちが勾配を登っていく姿は、実に目に鮮やかだ。

 

 サイクリストたちのスタイルもこだわりに溢れている。ジャージのフィット感、袖先のリブ、ヘルメットやキャップの正確な位置、サングラス、ヘアスタイル、そしてアクセサリーに至るまで、ライダーが身に纏う装いはデザインと機能美を極限まで追求したものだ。素晴らしいサイクリストは、必ず素晴らしいスタイルをしている。ここではその中から、特に際立っていたスター選手たちを紹介しよう。

 

 

 

ジャック・アンクティル

 

 

 フランス出身のサイクリスト、ジャック・アンクティル(1934〜1987年)は、ツール・ド・フランスを5回制した最初の選手である。そしてツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャの3つのグランツールのすべてで勝利した初の男でもある。彼の「初」リストだけでも、サイクリングの殿堂入りにふさわしい。

 

 彼は軽犯罪をことさらオープンにするなど、その人生において常に論争の的となった。しかし公(おおやけ)のインタビューなどでは常に紳士的であった。異端児という意味では、ディエゴ・マラドーナやジョージ・ベストのサイクリスト版といえるだろう。

 

 この時代のジャージは、袖が腕の高い位置で終わり、ジッパーが胸から始まるというデザインだった。青とオレンジのジャージを着てもじゃもじゃの茶髪をなでつけた彼のスタイルは、なぜか威厳があり、観客は彼の姿から目を離すことができなかった。

 

 

 

ファウスト・コッピ

 

 

 イタリア・ピエモンテ出身のファウスト・コッピ(1919〜1960年)は、自転車に乗っている時と乗っていない時とでは別人に見えた。当時の評論家は、バイクを降りたコッピは不器用で頬がこけていて、腕は細く、脚だけが筋肉質だと書いていた。偉大なライバル、ジーノ・バルトリからは「皮を剥がれた猫のようだ」と言われた。

 

 そんな彼が自転車のサドルに跨ると、動きはまるで一遍の詩のようで、ファンでなくても目を奪われた。その細い体躯にもかかわらず、コッピの脚力は驚異的で、急な登り坂さえ「ないも同然」に見えた。全盛期には、誰からアタックされても決して捉えられることがなかった。

 

 彼はイタリア製ジャージに身を包み、つばのある帽子の下にシェードをかけているのがなんともクールだった。一度走り出したら、あとはゴールまで待つしかない、そんな男だった。

 

 

 

マリオ・チポリーニ

 

 

 完璧なテーラードスーツ、洗練されたヘアスタイル、そして女性にはモテモテ……。イタリア出身のマリオ・チポリーニ(1967年〜)は、バイクでの活躍と同様に、バイクを降りた後の活躍でも有名だった(そして今もそうである)。

 

 このリストの中で最も派手なサイクリストであるチポリーニは、ファッションの面でも革命的な存在であった。マッスル・スーツ(全身の筋肉をプリントしたサイクリング・ウエア)、ゼブラ柄、タイガー柄、1982年の映画『トロン』にインスパイアされたテクノスキン・スーツなど、どれも印象的なジャージである。

 

 ツール・ド・フランスでは黄色一色のジャージで出場して罰金を科されるなど、常にトラブルメーカーだった。彼の豪放磊落な性格にとどまるところを知らず、レース中には携帯電話を手にタバコを吸いながら選手たちと談笑している姿がよく目撃された。

 

 

 

ファビアン・カンチェラーラ

 

 

 お洒落なサイクリストを目指すなら、サイクリング・キットを買うとき、あるいは自転車に乗るための服を着るときに次のことを心に留めておいてほしい。

 

「カンチェラーラならこれを着るだろうか?」

 

 もし答えがノーなら、やらないことだ。既に引退したスイス出身のスーパースター、ファビアン・カンチェラーラ(1981年〜)は、サイクリング界のファッションアイコンである。泥にまみれていても、いつも完璧に見える。それは偶然ではない。それこそが彼のスタイルなのだ。

 

「スパルタカス」というニックネームを持つ彼は、その天才的な才能に匹敵する精神力を備えていた。彼は自転車競技の新時代の主役のひとりとして、人々の記憶に深く刻まれることになった。

 

 

 

トム・シンプソン

 

 

 英国出身のトム・シンプソン(1937〜1967年)は、後ろ向きのキャップとアビエーターサングラスによって広く知られた。自分の意見を主張することを恐れず、当時のスポーツ界を代表する人物であったが、残念ながら29歳でその生涯を閉じた。ツール・ド・フランス第13ステージのヴァントゥ山の登り坂で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ。

 

 検死解剖の結果、アンフェタミンとアルコールを摂取していたことが判明し、ヴァントゥの激しい坂と暑さ、そして胃の不調が重なり、死へと繋がってしまったのだ。亡くなった場所の近くには記念碑があり、現在も多くのサイクリストの巡礼の地となっている。

 

 

 

ローラン・フィニヨン

 

 

 フランス・パリ生まれのローラン・フィニョン(1960〜2010年)は、1980年代のキッチュなジャージとヘッドバンドを身に纏い、アルプスの風景のなかで輝いていた。観客はフィニョンの大胆な色彩のグラフィックを、先頭集団の中、あるいは集団のはるか前で目撃することができた。

 

 長い金髪をポニーテールにし、オックスフォード大学のボドリアン・ライブラリーで見られるような銀縁のオーバル眼鏡をかけた彼の姿は、「根性」などとは無縁の、実にエレガントなものだった。

 

 

 

ヘルト=ヤン・テュニス

 

 

 オランダ出身のヘルト=ヤン・テュニス(1963年〜)は、長い髪と鋭い目、細い手足と日焼けした肌で、この世のものとは思えないような風貌をしていたが、バイクを走らせるのは得意だった。テュニスは、エレガントと派手さの境界を行き来し、やがてその境い目を越えていった。

 

 彼のエレガンスは、1989年のツール・ド・フランスで頂点に達した。水玉模様のジャージに身を包んだ彼は、ガリビエ峠からクロワ・デ・フェールを超え、アルプ・デュエズで勝利を飾ったのである。

 

 

 

ヴィットリオ・アドルニ

 

 

 イタリア・サン・ラッツァロ・ディ・パルマ出身のヴィットリオ・アドルニ(1937年〜)は、有名なタイトルこそ獲得することはできなかったが、真の紳士であり、スポーツ界のすべての人から慕われていた。

 

 彼はいつも、イタリアらしい淡い色合いのジャージを着ていた。それはサルトリア的にとても優れているように見えた。

 

 彼がチームの大切なメンバーであったことは、ある有名な写真に象徴されている。レース中盤、シェフ帽をかぶったジャック・アンクティル、フェリーチェ・ジモンディとともに自転車に乗り、皿からスパゲッティ・ボロネーズを口にしているのだ。

 

 

 

フィオレンゾ・マーニ

 

 

 イタリア・ヴァイアーノ出身のフィオレンゾ・マーニ(1920〜2012年)は、1949年から1951年にかけてのツール・デ・フランドルでの3連覇という偉業を成し遂げたことで知られている。禿げ上がった彼の頭はサイクリストというより、政治家のようであった。

 

 彼の人生は第二次世界大戦で狂わされ、ファシスト運動へのシンパシーを疑われるようなこともあった。しかし戦後も競技を続け、1955年のジロ・デ・イタリアにおいて史上最年長で優勝した。

 

 

 

マルコ・パンターニ

 

 

 イタリア・チェゼナーティコ出身のマルコ・パンターニ(1970〜2004年)は、ドーピングなどさまざまな物議を醸したが、サイクリング・ファンの間では常に人気のある選手だった。

 

 1995年、彼はコースを逆走してきたクルマと正面衝突(全選手が通過したと警察が勘違いし、交通規制を解除したことが原因)。左足の下腿骨が折れて、皮膚から飛び出す大けがを負い、選手生命の危機に直面した。しかしその後再び立ち上がり、その才能にふさわしい輝きを見せるようになった。アグレッシブなライディングは、1998年のツール・ド・フランスでの勝利をもたらした。

 

 坊主頭にバンダナを巻き、輪っかのイヤリングをつけていたことから、「イル・ピラータ(海賊)」と呼ばれ、90年代後半のサイクリング・カルチャーを象徴する存在として注目を浴びた。

 

 

 

ジョバンニ・バッタリン

 

 

 イタリア・マロースティカ出身のジョバンニ・バッタリン(1951年〜)は、バイクに乗る姿は自然だったが、身につけるアクセサリーがスタイリッシュなことで知られていた。腕にゴールドのロレックスを着けてレースに出場することもあった。いつもキッドレザーのグローブを身に着けていた。

 

 1979年のツール・ド・フランスで「山岳賞」を獲得したときの彼は、ゴールドのフォークとトゥクリップを装着した赤いコルナゴに跨っていた。抑制の効いたスタイルを得意とし、他のどのイタリア人よりもお洒落なサイクリストであった。

 

 

 

エディ・メルクス

 

 

 ベルギー出身のエディ・メルクス(1945年〜)は、他の誰にも勝たせないことから「カニバル(人喰い)」と呼ばれていた。彼は、ツール・ド・フランスで5回優勝している唯一の人物だ。エルビス・プレスリー風の髪、ミック・ジャガー風の唇、濃く長いもみあげを持つ彼の風貌は、サイクリストというよりロックンローラーのようだった。

 

 メルクスは、60年代後半から70年代初頭の社会を象徴するような人物だった。性格はシャイだったが、サドルに跨ると人が変わった。帽子のつばを上げ、生意気な笑みを浮かべながら走ることが多かったが、それは自分が抜かれることはないという自信があったからである。

 

 

 

ランス・アームストロング

 

 

 ランス・アームストロング(1971年〜)は、アメリカ・テキサス出身の選手である。かつて「イエロージャージ」は、彼のためにあるようなものだった。

 

 彼は1996年に精巣がんを発病したが、見事復活を果たし、ツール・ド・フランスで7連覇を達成する一方、がんに苦しむ人々を支援する財団を設立するなど、世界の人々から賞賛された時期があった。

 

 他のサイクリング・プロフェッショナルと同様に、彼は執拗なドーピング疑惑と戦った。しかし、2010年までに、旧チームメイトのフロイド・ランディスが、自転車競技史上最大のドーピング陰謀の首謀者として、アームストロングを告発し、スポーツ史上最も劇的な栄枯衰退をもたらした。全米アンチドーピング機関(USADA)は「永久追放」を言い渡し、彼は獲得したほとんどのタイトルを剥奪された。

 

 

 

ジーノ・バルタリ

 

 

 イタリア・フィレンツェ近郊、ポンテ・ア・マ出身のジーノ・バルタリ(1914〜2000年)は、ツール・ド・フランスで2度の優勝を果たした勇敢な選手であった。しかし残念ながら、第二次世界大戦が彼の最盛期を奪ってしまった。大戦中はユダヤ人の国外逃亡を助けていたという。

 

 少し腰の引けたスタイルで走るのが彼の特徴で、宿命のライバル、ファウスト・コッピとの激しいバトルが記憶に残っている。