Excavating Ghosts
The many faces of Japan
発掘され続けるゴースト
「ジャパン」のさまざまな顔
September 2022
『孤独な影(Gentlemen Take Polaroids)』
『孤独な影 + 4』
紙ジャケット仕様/ボーナス・トラック4曲収録
UICY-79985 ¥2,934 2022/6/22発売
1980年夏、ジャパンはリチャード・ブランソン率いるヴァージンを新しいレコード会社として選んだ。彼らはジョン・パンターとともに、『クワイエット・ライフ』を録音したロンドンのスタジオ、AIRスタジオに移り、次のアルバム『孤独な影』の制作に取りかかった。
当初、バンド内のモチベーションは高かった。ハンザが純粋に商業的な成功を目指すレーベルであったのに対し、ヴァージンは契約したミュージシャンのアーティスティックな表現を重んじてくれたからだ。
しかし、レコーディングが始まると、グループ内で大きなパワーシフトが起きていることが明らかになった。それまでのレコーディングは、ジャパンのメンバー5人による共同作業だったが、その時までにはレコーディングの主導権を握るのはデヴィッド・シルヴィアンになっていたのだ。
完璧を求め、感性に自信があった彼は、他のメンバーにも自分の意に沿うことを強要し、演奏内容まで指示するようになった。バンド内の緊張感は時に耐えがたいものがあった。
ミック・カーンは、後にこう回想している。
「デヴィッドと私の間で何回も言い争いがあった。サックスのアレンジだけでレコーディングに何日もかかった。皆がこれでいいと思っても、デヴィッドだけが首を横に振り、テイクを重ねていった。コリン・フェアリー(アシスタント・エンジニア)が辛抱強く座って、『Methods of Dance』のひとつの単語を3日間にわたって何度も録音していたこともあった」
ギタリストのロブ・ディーンにとって、レコーディング・セッションはさらに困難なものだった。彼は、自分がバンドから次第に外されていることに気づいた。事実、彼はバンドがすでにレコーディングを始めていることを偶然に知ったのだった。どうやらシルヴィアンは、彼が音楽的にも視覚的にも、バンドの方向性にそぐわないと判断していたようだ。
ディーンは振り返る。
「僕自身のクリエイティブな目標が、グループの他のメンバーから離れていってしまった。その結果、自分が満足するようなギターパートを作るのがどんどん難しくなっていった」
ジャパンはYMOやクラフトワークなどのエレクトロニック・ミュージックの影響を強く受け、ディーンと彼のギターが入り込む余地はなくなっていったのだ。
シルヴィアンはこう認めている。
「私はロブの個性を押し殺そうとしていた。私はギターに対して『こうだ』という確固たるイメージを持っていて、それをロブに押し付けていた」
バンドを支配していたにもかかわらず、シルヴィアンはディーンに「もうジャパンにお前は必要ない」と言う勇気がなかったようである。シルヴィアンは単にディーンをスタジオに呼ぶのを止めた。
ミック・カーンは思い出す。
「ギターのパートがある度に、誰かが 『ロブを呼ぼうか』と言い出す。そしていつも却下される。ロブは事実上セッションから追放されていた」
ディーンはアルバムのうち4曲にしか参加していない。
もうひとつ、バンド内で争いになったのは、アルバムに収録されている『Taking Islands in Africa』という曲だった。AIRのスタジオで2枚目のソロ・アルバム『B-2 Unit』を録音していた坂本龍一が作曲・演奏し、デヴィッド・シルヴィアンが作詞したのが『Taking Islands in Africa』である。
この曲にはリチャード・バルビエリとスティーヴ・ジャンセンの名前がクレジットされているが、ジャンセンは自分が関わったのはほんの少しだと回想している。ミック・カーンとロブ・ディーンは全く関与していない。この曲は、ジャパンの曲というより、坂本とシルヴィアンのコラボレーションであり、30年近く経った今でも、アルバムに収録されたことは苦い思い出となっている。
ミック・カーンは「坂本龍一を尊敬し、友人として大切に思っているが、この曲はデヴィッドと龍一のコラボレーションであり、ジャパンとはほとんど関係がなかった。アルバムの他の部分とミスマッチだった」と振り返っている。
スティーブ・ジャンセンは、この曲をジャパンの 「最も惜しまれる曲。坂本のアルバムに入れるべきだった」と言っている。坂本自身、この曲がアルバムに収録されていることを知った時は驚いたという。場違いで、アルバムの他の曲と合わないと思ったからだ。
レコーディングは緊張の連続だったが、ケイト・ブッシュやポール・マッカートニーが、当時AIRのスタジオを使っていたミュージシャンが彼らを訪れ、リラックスした時が流れたこともあった。ポールはジャパンのアルバムにギターを弾きたいと申し入れたが、バンドは彼らの申し出を受けなかった。また、デュラン・デュランもデビュー・アルバムのレコーディングは同じスタジオで行った。
彼らは以前、アルバムのプロデュースを希望してジャパンにデモカセットを送ったことがあったが、ミック・カーンは『グラビアの美少女(Girls on Film)』を聴いて「これはひどい!」と思ったと回想している。自分たちのアイドルから拒絶されたデュラン・デュランのメンバーは、リチャード・バルビエリにこう予言した。「俺たちはお前たちよりビッグになってやる。なぜなら俺たちはもっとそれを望んでいるからだ」
レコーディング・セッションが終わる頃までには、ジャパンの終焉の種が撒かれていたようだ。シルヴィアン自身も、もっと皆で作業をしていれば、アルバムはさらに良くなっていただろうと認めているようだった。
「『孤独な影』がジャパンのベスト・アルバムだとは思っていない。それは制作に苦労したアルバムだった。僕が彼らを抑えつけていたから、メンバー間のフィーリングがあまり良くなかった」
ヴァージンは1980年11月、クリスマス商戦に合わせて『孤独の影』を急遽リリースした。このアルバムは全英チャートで51位にとどまったが、『クワイエット・ライフ』と同様に10万枚を売り上げ、バンドにとって2枚目のゴールド・ディスクとなった。また、このアルバムは日本のオリコンチャートでは51位にとどまり、ジャパンのアルバムの中で最も低い順位となった。
しかし、それ以上に重要なのは、このアルバムによって、バンドの知名度が自国でも高まったことだ。ジャパンがこのアルバムの発売を記念してロンドンのライセウム・シアターで公演したとき、それは彼らの英国での初めてのソールドアウト公演となった。
このツアーの後、ミック、スティーブ、リチャードはパルコの「アート・オブ・パーティ」展に参加するために来日した。この展覧会は1981年1月2日に渋谷パルコで始まり、その後、札幌パルコ、大阪・心斎橋パルコを回った。この展覧会では、ミックの彫刻、スティーブの写真、そしてデビッドとリチャードによるアンビエントなBGMがフィーチャーされた。 1月8日、ミック、スティーブ、リチャードが渋谷パルコの展示会に参加した。
1981年2月、アルバムのプロモーションのためバンド全員が再来日した。全国で7回の公演を行い、2月25日の武道館でクライマックスを迎えた。その2ヵ月後、ロブ・ディーンは正式にジャパンを脱退するが、翌月から始まった「ジ・アート・オブ・パーティズ」のツアーに参加することになった。
ディーンは思い出す。
「他のメンバーとはまだ仲良くしていたが、デイヴィッドのことは無視していた。自然とそうなってしまった。それ以来、彼とは話をしていない」
マネージャーのサイモン・ネイピア-ベルは、ロブ・ディーンがバンドを脱退したことを「俺たちが長い間努力してきたジャパンの終わりの始まり」だと感じていた。