Excavating Ghosts
The many faces of Japan
発掘され続けるゴースト
「ジャパン」のさまざまな顔
September 2022
『果てしなき反抗(Adolescent Sex)』
1978年3月、バンドは最初のシングル、バーブラ・ストライサンドの曲『パレードに雨を降らせないで』のカバーバージョンをリリースした。4月にデビュー・アルバム『果てしなき反抗(Adolescent Sex)』を発表。このアルバムのタイトルは、一部の国ではあまりに物議をかもすと考えられ、単に『Japan』としてリリースされた。
このシングルとアルバムは批評家に酷評され、イギリスでは成功しなかった。ジャパンの荒っぽいアメリカン・グラム・ファンク・ロックは、当時人気のあったパンクロックやニューウェーブ・シーンとは相容れなかったのだ。
『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』紙の批評家、トニー・スチュワートは次のように述べた。
「悪臭がする音楽だ。私のレコードプレイヤーは、このレコードをかけることを拒否している」
デヴィッド・シルヴィアンは、1982年にこのアルバムを振り返ってこう語っている。
「ファースト・アルバムの『果てしなき反抗』は、僕らが若すぎて、作るにはナイーブすぎたという意味で後悔している。周りの人たちはそのことに気づいて、このアルバムをリリースさせるべきではなかった」
にもかかわらず、バンドはオランダとベルギーで成功を収め、『果てしなき反抗』のシングルはトップ30にチャートインした。日本では、ビクター・レコードが5年間の契約を結び、アルバムはオリコン・アルバム・チャートで20位を記録した。
これは、サイモン・ナイピア-ベルが考えた巧みなキャンペーンのおかげであった。ジャパンのイメージだけで、まだ誰も聴いたことのない日本人のファンクラブの会員数が3万人にも達したのである。アルバムが発売されれば、3万枚の売り上げが保証されたのだ。
英国では、ジャパンは1978年2月に「ダムド」、同年6月に「ブルー・オイスター・カルト」といった知名度の高いバンドのサポート枠を得るようになった。ブルー・オイスター・カルトのファンは、ジャパンに対してブーイングや瓶を投げつけるなど、敵意をむき出しにしていた。
1978年7月からは、自分たちのライブでメインアクトを務めるようになり、少ないながらも忠実なファンを獲得するようになる。9月にアメリカで4回のライブを行ったが、あまりの反応の悪さに、ジャパンは二度とアメリカでライブをしないことになった。