Excavating Ghosts
The many faces of Japan
発掘され続けるゴースト
「ジャパン」のさまざまな顔
September 2022
text andi brooks
「ジャパン」は英国のバンドである。独特のビジュアルイメージと冒険的な音楽スタイルで、1970年代後半から1980年代初頭にかけて、英国、ヨーロッパ、そして日本の若者文化に大きな影響を与えた。リードボーカルのデヴィッド・シルヴィアンの圧倒的な美貌と流行の先端を行くファッションセンスは、バンドの熱烈なファンだけでなく、他のバンド、特にジャパン・ファンを自認するデュラン・デュランに影響を与えた。
ジャパンが最も成功していた時期に解散してから40年が経つが、いまだに熱心なファンがおり、同世代で最も重要かつオリジナルなバンドとして尊敬を集めている。
しかし、ジャパンは必ずしもいつも称賛されていたわけではない。8年間の活動期間中、彼らは批評家の嘲笑、空っぽのコンサートホール、売れないレコードという最低の状態から、賞賛、ソールドアウトのツアー、商業的成功という最高の状態にまでなったのだ。
だが、その努力と執念が報われるはずの時に、バンドは崩壊し、解散してしまった。
キャットフォード・ドールズ
バンドは1974年、創設メンバーがまだロンドン南東部のキャットフォード・ボーイズ・スクールの生徒だった頃に始まった。当時、デヴィッド・バットと友人のアンソニー・ミケリデスは、髪を染め、イヤリングと化粧をしていたために、クラスメイトからいつも殴られていた。
あるクリスマスに、デヴィッドはギターを、弟のステファンはドラムのセットをもらった。彼らは、ボーカルとベースにマルチ・インストゥルメンタリストのアンソニーを迎え、ロンドン南東部のルイシャムにあるバットの実家で練習を開始した。
1974年6月1日、アンソニーの兄の結婚式でカバー・バージョンによる最初のギグを行ったが、ヴォーカルのアンソニーがあがってしまい、突如デヴィッドがバンドのシンガーを引き受けることになった。
翌年には、イースト・ロンドンのクラプトン出身のリード・ギタリスト、ロブ・ディーンが加わった。英国の有名な音楽新聞『メロディーメーカー』に掲載された広告を見て、スカウトされたのである。22歳で既婚、2人の子持ちのディーンは、他の10代のメンバーより4歳年上だった。
最後のメンバーは、同じく学校の友人でキーボードのリチャード・バルビエリであった。5人編成のバンドとしては、1976年のバレンタインデーに、ロンドンのパワーポップ・バンド、「ザ・ファビュラス・プードルズ」のサポートとして初めてライブを行った。
ジャパンという名前の由来は謎に包まれている。一説にはプロとして初めてのライブの前に、バックステージでデヴィッドが適当に選んだと言われている。また、バスの中で見つけた旅行パンフレットからとったという説もある。真偽のほどはともかく、デヴィッドはこの名前が好きではなかった。後に彼は言っている。
「当時は嫌いだった。今でもそうだ」
しかし、この名前は、彼らのイメージとともに、日本での人気を高めるのに役立った。1976年、ニューヨーク・ドールズを英国風にしたようなバンドは、ベテランのマネージャー、サイモン・ネイピア-ベルの目に留まることになる。ネイピア-ベルはその長いキャリアの中で、「ヤードバーズ」や伝説のバンド、「ジョンズ・チルドレン」で一時リードギターを弾いていた有名になる前のマーク・ボラン、そして後に「ワム!」をマネジメントした。
ネイピア-ベルは、脱色した長いブロンドの髪とセクシーなステージポーズのデヴィッド・バットがスターになると確信したのである。ネイピア-ベルは、デヴィッドのことをミック・ジャガーとブリジット・バルドー、エルビス・プレスリー、ジェーン・フォンダを掛け合わせたような人物だと表現した。
1977年、ジャパンはロンドンでドイツのレコード会社ハンザが主催するタレントコンテストに応募し、契約を結ぶことになった。この時、デヴィッド・バットは、ニューヨーク・ドールズのギタリスト、シルヴェイン・シルヴェインにちなんで、デヴィッド・シルヴィアンと改名した。スティーヴン・バットは、ニューヨーク・ドールズのシンガー、デヴィッド・ヨハンセンにちなんで、スティーヴ・ジャンセンを名乗った。アンソニー・ミケリデスはミック・カーンとなった。