THE ART OF HAPPINESS
画家バルテュスと節子夫人の幸せな関係
January 2017
自宅で日常的に着物を着用していたバルテュスと節子夫人(1970年代)。
芸術家同士が恋に落ちるとき、その先は茨の道になることが多い。例えば、ジャクソン・ポロックの絵画には激しい動きの衝突が見られるが、これは同じ抽象表現主義者であるリー・クラズナーとの結婚に対する苦悩が表れたものとも解釈できるし、パブロ・ピカソは自身のミューズでもあった写真家ドラ・マールの肖像画を描いたが、捻れて残酷さすら感じるその描写は、酷く不安定だったふたりの関係を映し出している。メキシコ人女流画家フリーダ・カーロと、多くの壁画作品で知られるディエゴ・リベラのカップルもまた、不満を抱くフリーダの両親に「象と鳩」と呼ばれた上、数々の浮気や別居により離婚と再婚をするという苦難に満ちたものだった。
しかし、バルテュスと節子夫人の40年に及ぶ愛情関係は、芸術界が育んだ男女の縁の中でも特に学ぶところが多い。性愛を数多く描いたバルテュスが日本人芸術家の節子夫人と出会ったのは、彼女が20歳の大学生のときだった。
スキャンダラスな初個展 バルテュスはバルタザール・クロソフスキー(後にポーランド貴族の血を引いているという主張の一環として、自身の名前に“ド・ローラ”を加えている)としてポーランド系の両親のもとに生まれた。パリ14区で育った彼には、美術史家の父と画家の母がいた。兄は哲学者兼作家であり、一家はパリの文化的エリートの中に数えられていた。両親はマティスやボナールと友人で、自宅の壁にはセザンヌやドラクロワの油絵を飾っていたという。
バルテュスは40点のドローイングを収録した画集『ミツ』を11歳で出版したのち、自分の心を動かすさまざまな芸術を独学で研究する青春時代を送った。フィレンツェにあるピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画や、スイスの教会にあるテンペラ画から大きな影響を受け、25歳のときにパリにアトリエを構えた。