May 2022

POWER AND THE GLORY

タイロン・パワーの能力と栄光

ハリウッド黄金時代に、そのルックスとカリスマ性で“映画の王様”と呼ばれたタイロン・パワー。
それでも彼は自分自身を厳しく律し、どんな称賛にも満足しなかった。
text james medd

Tyrone Power / タイロン・パワー1914年オハイオ州生まれ。幼少期に両親は離婚するが、高校卒業後に俳優の父を頼ってハリウッドへ。父は間もなく急死するが、若手スターの道を順調に歩む。さまざまなジャンルの映画に出演し、二枚目俳優としての地位を確立。戦時中はアメリカ軍に志願した。44歳のとき、心臓発作で亡くなる。写真は1938年の『世紀の楽団』での粋な1枚。

 タイロン・パワーという名前は、エンターテインメントと同義語だった。彼の父はアメリカ演劇界のスターであり、曾祖父はアイルランドで人気のコメディアン。いずれも皆同じ名前だったのだ。祖父のハロルドもコンサート・ピアニストとして活躍したし、母のヘレン・パティアが夫と出会ったのも劇団だった。

 しかし誰も予想していなかったのは、彼がファミリーの誰をも超えて、その名声が世界で認められたということ。現在でも史上最大の興行収入を上げたスター100人のうちのひとりである。

 彼はよく“幸運を摑んだ美男子”といわれていたし、今でもそうだ。背が高くハンサムで、マリリン・モンローが世の男性たちに衝撃を与えたように、世の女性たちに大きな影響を及ぼした。共演女優もやはり彼に魅了された。デビー・レイノルズは「肉体の存在感に圧倒された」と述べ、アン・バクスターは「今まで見た中で最も美しい」と称賛。ソフィア・ローレンにとっては、「青春時代の神」だった。

 パワーは類い稀なルックス、存在感、カリスマ性で一躍スターとなったが、単なる二枚目俳優ではなかった。1940年の剣劇映画『怪傑ゾロ』の主役を演じたことで知られているが、ミュージカル、西部劇、ギャング映画、コメディーなど、短いキャリアの中で50程の作品に出演。記憶に残る作品も多かったが、彼を満足させるにはこれでも少なすぎた。最も厳しく評価したのは彼自身であり、自身の役者人生を“大衆の忍耐のモニュメント”と評したこともある。

 恩義を重んじ、自分に対して投資をしてくれた人に従順だったパワーは、上質な生活と上質な女性(時には男性だったという証言もある)で自分を慰めていた。多くのスターが魅力を失う40代になっても、彼は自身の望む俳優というキャリアを着実に築きつつあった。しかしこの第2幕は、彼が44歳という若さで急死することにより閉じられてしまった。それは、ジェームズ・ディーンやリバー・フェニックスの死と同じくらい大きな悲劇だった。

女優ジョーン・ブロンデルと共演した『悪魔の往く町』(1947年)の場面写真。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 44
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