May 2022

POWER AND THE GLORY

タイロン・パワーの能力と栄光

text james medd

カメラに向かって堂々とポーズをとるパワー(1940年代頃)。

 1914年にオハイオ州シンシナティで生まれたパワーは、病弱だったため、一家は温暖なカリフォルニアへの移住を余儀なくされた。両親は彼が6歳の時に離婚したが、彼に演技の道に進むことを強く勧めた。1931年には高校を中退して父親が出演する舞台に参加した。しかし親子共演は束の間で、同年12月に父は心臓発作で亡くなった。父は、息子の腕の中で最期を看取られたという。

 パワーはひとりでハリウッドスターを目指したが、すぐに苦境に立たされた。屋根裏部屋を借り、盗んだ牛乳と家主の庭にあったアボカドを食べて凌いだこともあった。ニューヨークに移ってブロードウェイの舞台に立つようになると、ようやく成功へのチャンスを摑む。父の古い同僚であるヘンリー・キング監督のスクリーンテストを受けたところ、ルックスのよさと圧倒的な存在感が評価され、既に出演者が全員決まっていた映画『勝鬨』(1936年)への出演を決めたのだ。配役は4番手だったが、22歳のパワーはこの映画を成功に導いた。

 その後、パワーは立て続けに映画に出演した。1937年のキング監督の『シカゴ』では主役を務め、同年の『氷上乱舞』ではノルウェーの元スケーターの女優ソニア・ヘニーと恋に落ち、注目を集めた。1938年には、ミュージカル映画『世紀の楽団』でスラム街に住むバンドリーダーを演じ、『マリー・アントワネットの生涯』ではノーマ・シアラーとロマンスを演じた。さらに翌年には、『地獄への道』や『雨ぞ降る』などの映画に出演し、ハリウッドで2番目に大きな興行収入を得る役者となった(1番は子役のミッキー・ルーニーだったため、競争相手とはいえず、実質はナンバーワンだった)。

「私は適切な時に、適切な人間だった」。パワーは絶大な人気を得たにもかかわらず、謙虚さを忘れなかった。デヴィッド・ニーヴンは彼を「みんなのお気に入り」、「自分の見た目と同じくらい魅力的」と表現している。そして彼は、女優ドロシー・ラムーアが「悪魔のよう」と呼んだ笑顔も持ち合わせていた。

 パワーはこうして手にした自らの成功を、存分に味わった。1937年の雑誌記事で、その日常生活が紹介されている。ハリウッド・アスレチック・クラブで汗を流し、行きつけのテーラー、マリアニ・デイヴィス(後にクラーク・ゲーブルやダグラス・フェアバンクスに続いてサヴィル・ロウのデイヴィス&サンズに移ったが)でフィッティングをし、その後はクラブで飲み明かし、ハリウッド・セレブとも頻繁にデートをしていた。

 劇中では結婚を放棄したこともあるパワーだったが、映画『スエズ』(1938年)で共演したフランス人女優のアナベラと1939年に結婚した。しかしパワーは、多くのセックスシンボルと同様、一夫一婦制を信奉していなかった。彼の愛人としてはジュディ・ガーランドが有名であるが、そのほかにも、女性・男性を問わず、常に多くの噂があった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 44
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