March 2020

OUT OF THE FIRE

炎の男、ニキ・ラウダ

text nick foulkes
issue10

モンツァで行われたイタリアGPでのラウダ(1974 年)。

 フェラーリにとって、1973年シーズンは惨憺たるものだった。誇り高いイタリアメーカーである同社が6位に終わったのだ。だが、シーズンが終わるやいなや、ラウダはフェラーリのエンジニアたちと協力し、冬の間にマシンを再調整した。

 1974年の第1レースでは、ラウダが2位に入った。フェラーリはそのまま好調を維持すると、2位でシーズンを終えた。翌1975年、ラウダは余裕のリードでドライバーズ・チャンピオンを制した。フェラーリもコンストラクターズ・ランキングにおいて、大差で頂点に立った。

 ラウダにとってもエンツォ・フェラーリにとっても幸いなことに、ふたりは互いの言語を話せなかったし、両者の言語を話す人々も、ラウダの意見のうち、刺激の強いものは翻訳を拒否することがあった。

 そんなわけで、若きオーストリア人と崇拝を集めるイタリア人は、最後にはわめき合いになることが多かった。

 しかし「ふたりは口げんかを非常に楽しんでいた」と述べるのは、エンツォ・フェラーリの伝記の著者であるリチャード・ウィリアムズだ。「ラウダにとっては生来の率直さを発揮するチャンスであり、フェラーリにとっては、自分にあえて口答えしてくる人間に大声を浴びせる機会になった」

THE RAKE JAPAN EDITION issue 31
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