FERRARI 340 AMERICA VIGNALE SPYDER
ON THE RISING ROAD OF EMPIRE
伝説となった跳ね馬
August 2018
photography pawel litwinski / bonhams
カーブを優雅に曲がる340 アメリカ。サーキットから公道まで走ることができる。
シュテーレはル・マンでこのクルマを駆ることはできないが、ミッレミリア・ストーリカ(イタリアで毎年開催されるミッレミリアの復刻版。カントリーロードを往復1,000マイル走行する)には参戦してきた。この車がエンツォによって1952年のミッレミリアにエントリーされたこと、ドライバーがピエロ・タルッフィであったことは、マニアにとっては常識だ。
「タルッフィが座ったシートに座り、同じレース、同じ道で走らせると、歴史そのものを感じる。この名車でミッレミリアに出走できて、本当に光栄だ」とシュテーレは語る。この思いを共有するためには、歴史を学ぶ必要がある。
フェラーリは一発屋か? 1952年春、ヨーロッパは第二次大戦からの復興途上にあり、多くの都市には廃墟と化した区域が残っていた。それでも、エンツォ・フェラーリにとって、1950年代は希望に満ちた10年間であった。彼のサクセスストーリーは実にイタリア的だ。機械工からレーシングドライバー、レースチームのマネージャーとなり、レースカーを製造する自動車メーカーを興して、世界を制覇したのである。
小さな会社から出発し、今や最も有名なラグジュアリーブランドに成長したフェラーリの歴史は、広く知られた成功談であり、古代の叙事詩のようである。だが、どんな帝国にも起源があるように、フェラーリにも黎明期があった。
前年の1951年に、フェラーリはF 1で初めて勝利した。創業からわずか4年しか経っていない企業にしては、見事な成果である。エンツォはアルファロメオのもとで数々の勝利を収めてきたが、完全に独立してからはこれが最初の勝利であった。しかし、モデナの新興企業を疑問視する者も少なくなかった。世界有数の自動車メーカーだったアルファロメオの後ろ盾を得て勝利するのと、自力で勝利するのとは訳が違う。1952年の問題は、フェラーリが世界的な強豪チームになるのか、それとも単なる一発屋で終わるのかということだった。そこでエンツォが出した答えが、340アメリカだ。このモデルは、スペックを示す数字とマーケティングのキーワードを組み合わせて命名された。「340」は1気筒当たりの排気量が340ccであることに由来している。12気筒を合計した総排気量は4.1リッター近くとなる。「アメリカ」はフェラーリのターゲット市場を表している。戦後の経済大国アメリカは、フェラーリが業績を伸ばすための標的だった。
シンプルで機能的、かつ上質なコクピット。