AN AFFAIR TO FORGET
セックス、ドラッグ、死、そして“甘い生活”
July 2018
砂に描かれた輪郭は、オスティアのビーチでウィルマ・モンテージの遺体が発見された場所を示している。
カーリオはローマの地区検事であるアンジェロ・シグラーニを訪ね、法廷に縁故主義が蔓延しているのではないかという不安を吐露したことも明かした(このとき、モンターニャがイタリア各地の港へ出かけているのは、麻薬の密売と関係があるのではないかという疑念も伝えられている)。
「シグラーニはとても注意深く話を聞くと、私の肩を軽くたたいて、『この件にはこれ以上関わらないように』と助言しました」と彼女は証言した。その後間もなく、シグラーニは「新たな起訴の根拠が完全に欠如している」との理由で、訴訟を取り下げさせようとした。
“パパラッチ”の誕生 イタリア共産党が、政界の既成勢力全体が腐敗している証拠として事件を利用しようとし、カラビニエリ(イタリアの憲兵隊)も捜査を始めたことで、事態は山場を迎えた。一連の訴えは、まともに取り合ってもらえなかったある女性の主張というレベルを超え、新聞や雑誌のコラムは風刺や非難で溢れかえり、ヨーロッパ史上初の“メディアによる裁判”といえる狂乱状態となった。フォトジャーナリストたちも、関係者のインパクトある写真を撮るためなら手段を選ばず、張り込みやカーチェイスといった当時としては新しい取材手法を生み出した。
最終的には、カーリオの証言がぎこちなく、矛盾を含んでいたことが原因となり、すべての被告人に対する起訴が取り下げられてしまった。しかし、事件の残した影響は甚大だった。イタリア警察トップのパヴォーネや、外務大臣のアッティリオ・ピッチオーニは辞任を余儀なくされた。
最も多くを失ったのはウーゴ・モンターニャだった。カラビニエリの報告書によって、モンターニャは貧しいシチリア人の両親のもとに生まれた狡猾な悪党だと暴露された。彼は30年代、ローマとシチリアをぶらぶらし、不渡り小切手を振り出しては、自分は地位の高い専門家だと吹聴していたという。彼は何度か辛うじて投獄を免れていたのだ。