AN AFFAIR TO FORGET
セックス、ドラッグ、死、そして“甘い生活”
July 2018
モンテージ殺害事件の裁判で証言を終え、法廷を去るカーリオ
貴族的な優雅さに溢れた彼女は、モンテージと同じく女優を目指したこともあったが、競争率の高い戦後ローマの映画・舞台業界において、自分は通用しないことを悟る。そこで選んだのが、高い生活水準と権力を有するローマの放蕩者たちの集いの場で生きていくという、次善の策だった。
やがてカーリオは、月800ドルの報酬でモンターニャの愛人となった。しかし1953年の夏に愛人関係を解消されると、彼女は信仰に慰めを求め、フィレンツェの女子修道院に入信した。そこでウィルマ・モンテージの死について知っていることを洗いざらい暴露しようと決意したのだった。
カーリオの記憶は不完全だったが、抜群の破壊力だった。彼女は、外務大臣の息子であるピッチオーニがドラッグで朦朧とするモンテージを波にさらわれるまま放置したと主張し、ピッチオーニは正式に過失致死罪に問われた。.
また、事件発生時、なぜかモンターニャに数日間ミラノへ行かされていたことも打ち明けた。戻ってきた彼女がモンテージの死について口にすると、「モンターニャは烈火のごとく怒り、『お前は知り過ぎている、どこかへ行ったほうが身のためだ』と言ったのです」と彼女は証言した。そしてモンターニャが自分を亡き者にしようとしているのではないかという疑念も裁判官に告げた。