THE HEAVENLY BODY

神々しい肉体

Monday, March 15th, 2021

ジェーン・ラッセルはセックスシンボルであり、信仰に目覚めたクリスチャンでもあった。

幸いにも、彼女はこのふたつは両立可能だと思っていた。

 

 

text david smiedt

 

 

 

 

 

 当時のスターの中で、ジェーン・ラッセルほど天から授けられた特徴と同一視された者はいない。それゆえに、例えばハワード・ヒューズは彼女専用の“片持ち梁型ブラ”をデザインしたと言われていたし、アラスカの“Jane Russell peaks(ジェーン・ラッセル連峰)”が誰にちなんで名付けられたかは言うまでもない。

 

 過度に単純化されたあらゆる概念がそうであるように、ラッセルが与えるイメージは、彼女が持つさまざまな美点を見えづらくした。彼女が子供を持てない苦悩をバネに設立した組織であるWorld Adoption International Fundは、5万1000人の子供たちに新しい家族を見つけた。また彼女は、海外で生まれた米国軍人の子供が米国本土で育つ機会を得られるよう声高に訴えた。それは、セックスシンボルからひたむきなクリスチャンへと転身した彼女だからこそ打ち込めることだった。

 

 晩年の彼女は、いかなる場合であっても中絶に断固反対するほど保守的な立場を取ったが、世間に彗星のごとく登場したときのイメージは正反対だった。

 

 彼女を世間に送り出した映画は、もちろん1943年の『ならず者』だ。同作の悪名高い宣伝画像は、胸の豊かな22歳の彼女を呼び物にした。身に着けているブラウスは当時としてはけしからんもので、片方の肩がずり落ちており、ブラウスの下には魅惑的な重み以外に何もないと主張しているも同然だった。ラッセルの話によると、映画撮影時の彼女はウブな20歳で、クルーにだまされ、特に“谷間の目立つ”写真をいくつか撮られたという。

 

「彼らは2個のバケツを置いておいて、“さあジェーニー、こちらへ来てバケツを拾って”と言ったの。私は普通の衣装を着ていたから、かがんでバケツを拾い上げたわ。彼らが何をしているのか知りもしないで。そして後で気がついたの」

 

 ラッセルの説明によれば、この映画の公開は5年も延期され、彼女はその間、週5日のペースで宣伝活動を行った。しかしようやく映画館で上映が始まると、ヘイズ・オフィスと呼ばれたアメリカ映画製作者配給者協会は、同映画が数々の品位規定に違反していると判定し、公開わずか3日後に上映を中止させた。

 

 ヒューズはその後1946年に、検閲など知ったことかとばかりにノーカット版を公開したのだが、新しく用意されたポスターは、何と乳輪の存在をほのめかすものだった。しかもこのポスターは、「夏の熱い唇と、冬の冷たいハートを持つ女」というキャッチフレーズ付きだった。結果的に、映画よりも注目を浴びるようになったこの写真は、ドイツでも韓国でも兵士が好んで持ち歩く品になった。

 

 

マリリン・モンローとの共演

 

 ラッセルは1921年にミネソタ州ベミッジで生まれた。デビューのいきさつは、演技の授業を受けながら医療受付係として働いていたところを見いだされるという、いかにもハリウッドらしいものだった。少なくとも、それがひとつの説だ。だが実際は、ヒューズが(自分に柔順な)新人スターを探して大々的に募集していた時期に、通常のオーディションを受けたのだろう。

 

 彼女の最も有名な出演映画は、マリリン・モンローと共演した『紳士は金髪がお好き』ではないだろうか。マリリンの親友役、ドロシー・ショーを演じたラッセルは辛辣なクールさを表現した。吐息まじりの声で無邪気な姿を披露するマリリンと好対照をなすことで、その魅力はいっそう際立った。うまくはいかなかったが、彼女はセットの外でマリリンをイエス様に紹介しようとまでした。「ジェーンは私を改宗させようとしたわ」とモンローは後に語っている。「そして私のほうは、彼女をフロイトに紹介しようとしたの」。

 

 その後ラッセルは34の作品で演じることとなる。最後の出演作『Darker Than Amber(原題)』(1970年)で彼女は、米国の映画産業が30歳を過ぎた女優を切り捨てることを嘆いた。だが、ラッセルがハリウッドに食いものにされたと示唆することは厳密には正しくない。彼女もその仕組みを手玉に取ったからだ。『ならず者』をきっかけに、彼女は100万ドルで6本の映画に出演する契約をヒューズと交わした。条件は彼女が20年以上にわたって週1000ドルを受け取り、たとえ映画に出なくても支払われるというものだった。

 

 その過程で彼女は3度の結婚をし、互いの不貞、夫の悲劇的な早世、長年にわたる幸福を次々と経験した。また、酒にまつわる問題もあり、1978年には飲酒運転で4日間投獄された(まさにならず者行為である)。その後、79歳のとき、彼女の子供たちがやむを得ず介入したことで、ラッセルはリハビリ施設に入った。

 

 彼女は2011年に89歳でこの世を去った。ラッセルの伝説が生き続けている理由は、彼女がその身に結集させたセクシュアリティだけではない。むしろ、彼女が純粋な好ましさを併せ持っていたからだ。彼女はどこにでもいる親しみやすい女性ではなかったかもしれないが、地下鉄で気軽に微笑み返してくれるような、洗練された都会の美女だった。彼女がふたつの面を併せ持っていたことを如実に表したのが、晩年のインタビューにおける彼女の返答である。このとき彼女は、「クリスチャンにも胸がある」という発言で、セックスシンボルであることと自身の深い信仰心との間に矛盾は見当たらないと示唆したのだ。これには全面的に同意する。

 

 

 

THE RAKE JAPAN EDITION issue38