THE KALEIDOSCOPIC ESCALATION OF THE BEATLE BOOT

ビートルブーツとスウィンギング・ロンドン

March 2022

チェルシーブーツ(サイドゴアブーツ)のバリエーションである「ビートルブーツ」は、ビートルズの人気が高まるに連れ注目され、スウィンギング・ロンドンの象徴的なアイテムになった。

 

 

 

by FREDDIE ANDERSON

 

 

 

 

 

 

 1959年初頭、キューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタは、フィデル・カストロが起こした武装蜂起により、政権から追放された。そしてカストロはキューバの首相として政治権力を握った。一方、ロンドンではキューバの伝統に根ざしたブーツが、もうひとつの革命のシンボルとして登場した。コックニー出身の若きフォトグラファー、デイヴィッド・ベイリーが履いて脚光を浴びた、キューバンヒールのブーツだ。

 

 60年代の初めに『ヴォーグ』誌に作品を発表した彼は、時代の先駆者だった。後にスウィンギング・ロンドンの象徴となるモデル、ジーン・シュリンプトンと同棲したり、この時代の「神」となるミック・ジャガーと親交を深めたりしていた。アーティストのアンディ・ウォーホルは、友人であるパット・ハケットとの共著による回顧録『ポッピズム ウォーホルの60年代』(1980年)で、アートコレクターのジェーン・ホルザーが開いたパーティでのベイリーとジャガーのスタイルについてこう述べている。

 

「それぞれ独特の着こなしをしていた。ベイリーは黒一色。ジャガーは明るい色で、裏地のないスーツにとてもタイトなヒップパンツ、ストライプのTシャツを着ていた。カーナビー・ストリートの普通のカジュアルで特別高価なものではなかったが、アイテムの組み合わせ方がとても素晴らしかった。もちろんふたりとも、ロンドンのダンスシューズメーカー、アネーロ&ダヴィデのブーツを履いていた」

 

 

 

 

 ビートルズはハンブルクの下積み時代に、同じ英国のバンドが履いていたチェルシーブーツに注目した。それは、ブライアン・エプスタインが彼らのマネージャーになった時期と重なる。彼はビートルズに、もっとすっきりした服を着るよう主張した人物だ。スリムフィットのスーツ、ナローなブラックタイ、ポインテッドカラー、あるいはクラブカラーのシャツというやがて彼らの典型となるスタイルを完成させるため、バンドはアネーロ&ダヴィデを訪れ、キューバンヒールのチェルシーブーツを4足注文した。

 

 チェルシーブーツには、他の靴と異なり長い歴史がある。ロンドンの王室自治区の名前に由来する革製のサイドゴアブーツは、19世紀半ばのヴィクトリア時代、女王に仕えた靴職人J.スパークス・ホールによって考案されて広まった。彼は、1840年代にイギリスの発明家トーマス・ハンコックが特許を取得した加硫ゴムに着目し、サイドにゴムを入れて脱ぎ履きしやすい「パドックブーツ」なるものを製作した。女王陛下はたいそう気に入り、乗馬や毎日の散歩の際に着用されたのである。

 

 それから100年余り経った後、コヴェントガーデンの靴職人アネーロ&ダヴィデが「ビートルブーツ」を製作した。この呼び名はもちろんビートルズへのオマージュだが、アネーロ&ダヴィデを訪れてシューズを依頼した最初のアーティストはビートルズではなかった。ミュージシャンのミック・フリートウッドが自伝『プレイ・オン』でこう説明する。

 

「多くのバンドと同様、我々は皆、アネーロ&ダヴィデに行き、自分たちでブーツを買った。それはスペインのダンスブーツがベースで、純粋にクールなものだったんだ。ビートルズが履くようになって、必須アイテムになった」

 

 

 

 

『プリーズ・プリーズ・ミー』、『フロム・ミー・トゥ・ユー』、『シー・ラヴズ・ユー』などの曲に心酔したアメリカの女子学生、ジャニス・ホーキンスとマーサ・シェンデルの行動は、当時のビートルズファンの熱狂が、いかに凄まじかったかを示している。オハイオ州クリーブランドから家出したふたりは、16歳だったが、高価なロンドン行きの片道航空券を購入した。ロンドンにアパートを借り、スウィンギング・ロンドンの中心地だったソーホーをぶらつき、さらにリバプールまでヒッチハイクをして、自分たちのアイドルをひと目見ようと企てた。ロンドンに戻ったときには、既に国際的な捜査が始まっており、警官に見つかって彼女らは国外追放となった。

 

 これは「ビートルマニア」と言われた現象であり、キューバンヒールブーツが60年代半ばに大流行した理由でもある。人々はブームに乗り、若さ故の後先考えない行動に走ったのだ。1966年4月、『タイム』誌がロンドンを「スウィンギング・シティ」と命名したとき、それは最高潮に達した。

 

 しかし、スウィンギング・シックスティーズを最もよく捉え、この時代を代表するかの人物は、違う意見を主張する。デヴィッド・ベイリーの自伝『Look Again』の中で、彼は「シックスティーズは、1965年までに終わっていた」と語る。おそらく彼は、1966年のある映画について自分のところに来た評価を逸らしたかったのだろう。ミケランジェロ・アントニオーニ監督のスリラー『欲望』の主人公は、ベイリーがモデルであるとされている。若いファッション・フォトグラファーが、ソフトトップのロールス・ロイスに乗り、黒いキューバンヒールのチェルシーブーツを履いて、スタジオ撮影からパーティまで飛び回るという内容である。そのルックスとライフスタイルは、実在のベイリーに非常に酷似していた。

 

 

 

 

 

 その後、チェルシーブーツはその名前の由来となる地区とより密接な関係を持つようになった。60年代半ば、キングスロードやその周辺に数多く出現したブティックは、若者たちの新しい嗜好に応えていたが、チェルシーブーツはそんなトレンドにぴったりと当てはまるものだった。

 

 ロンドンで最初のサイケデリック・ブティックといわれる『Granny Takes a Trip(グラニー・テイクス・ア・トリップ)』は、ナイジェル・ウェイマスとその恋人シーラ・コーエン、そしてサヴィル・ロウで修行したテーラーのジョン・ピアースによってオープンした。ジョージ・ハリスンがウィリアム・モリスのフラワーパターンのジャケットを着ている写真を撮られた場所として広く知られている。社交界とロック界のスターたちが集うたまり場だった。ウェイマスはこう語っていた。「営業後の時間に、ブライアン・ジョーンズとジョン・レノンがよくやってきて、特別に店を開けていました」。

 

 ケールストリートにある『Hung on You(ハング・オン・ユー)』は、映画『欲望』にも登場したオーストラリア人のファッショニスタ、マイケル・レイニーが開いた店で、ミック・ジャガーなどのセレブ顧客を惹きつけた。当時レイニーは、『ヴォーグ』誌の編集者で駐米大使を務めたハーレク卿を父に持つ、ジェーン・オームズビー・ゴアと結婚していた。彼女はローリング・ストーンズの曲『レディ・ジェーン』のインスピレーション源になった人物で、ファッションやインテリアの分野のスタイルリーダーとして今日もなお多くの人に影響を与える存在となっている。そして彼女の親友、クリストファー・ギブスとマーク・パーマー卿もまた、ともに60年代のロンドンを形成した偉大な人物である。

 

 稀代のセンスを持つアンティーク・ディーラーだったギブスは、当時の富裕層の装いに影響を与えただけでなく、ジョン・ポール・ゲッティ・ジュニアやロスチャイルド卿が所有する大邸宅を、素晴らしいアンティークで飾り付けた。60年代のロンドンにおける、ハイソで享楽的なパーティはギブス抜きには語れない。その多くは、スタイル・エリートたちの巣窟だった、シャイン・ウォーク100番地の彼の自宅で開催されたからだ。ミック&ビアンカ・ジャガー、マノロ・ブラニク、ハーレック夫妻、アマンダ・リア、ピーター・ヒンウッドなど、錚々たる顔ぶれが集まり、中にはビートルブーツを履いているゲストも多くいたという。

 

 エリザベス二世の侍従であったマーク・パーマー卿は、友人のアリス・ポロックとともに、チェルシーに初期の男性モデル・エージェンシー「イングリッシュ・ボーイ」を設立した。彼は英国発祥のボヘミアン的な旅のムーブメント「ニューエイジトラベラー」の先駆者であり、各地を馬車で放浪していた。そんなパーマー卿もまた、ビートルブーツを広めた先駆者であった。