THE DIRECTOR'S CUT: VITTORIO DE SICA

イタリアの偉大な映画監督、ヴィットリオ・デ・シーカ

June 2021

アカデミー賞を受賞したイタリア人監督は、その二重生活と二重人格で知られていた。

しかしそれでも、デ・シーカは偉大な映画監督として、人々に称賛され続けている。

 

 

by ed cripps

 

 

 

1947年、ヴェネツィアでのヴィットリオ・デ・シーカ。

 

 

 

 イタリアのヴィットリオ・デ・シーカは、映画界の二重人格者だった。カメラの前では派手な演出をし、カメラの後ろでは政治的不正を声高に訴えていた。

 

 ガーディアン紙のマイケル・ニュートンの記事によれば、「まるでヒュー・グラントが突然ケン・ローチに変身したかのようだ」という。

 

 ナポリの貧しい家庭で育った彼は、演劇俳優としてスタートし、映画界に入り、脚本家のチェザーレ・ザヴァッティーニと出会った。

 

 2人で制作した4本の作品がアカデミー賞を受賞した。著名な小説家チェーザレ・パヴェーゼは「デ・シーカは当時のイタリアで、最も偉大なストーリーテラーである」と語っている。

 

 戦後に製作された3本の傑作、『靴みがき』(1946年)、『自転車泥棒』(1948年) (常に史上最高の映画のひとつとされている)、『ウンベルト・D』(1952年)は、誰もが胸を打つ、芸術的な寓話である。『ウンベルトD』は、やはり偉大な映画監督、イングマール・ベルイマンのお気に入りの映画だと言われている。

 

 晩年の傑作『悲しみの青春』(1970年)は、ヴィスコンティの『山猫』(1963年)と同様に、エレジーに満ちた代表作となった。この映画自体が、イノセンスとノスタルジアが入り混じった、複雑なメタファーとなっている。

 

 

 

 

 デ・シーカ自身は、非常にハンサムな男性であり、1957年にアーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば』を映画化した作品でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、英国のアクションシリーズ『The Four Just Men』に出演するなど、俳優としても国際的に活躍した。

 

 まるでジョージ・クルーニーの原型ように、彼のカリスマ性と俳優への理解は、彼の監督としての資質を高めた。『昨日・今日・明日』(1963年)では、マルチェロ・マストロヤンニに、ソフィア・ローレンとのセックスシーンの演じ方を、ベッドに飛び込んで教えた。

 

 もうひとつのデ・シーカの二面性は、自分が監督したい重厚な映画の資金を得るために、凡庸な映画への出演を受け入れたことである。ギャンブル好きの彼は、借金を返すために自分に合わない作品を受け入れることもあった。

 

 最も興味深いのは、ピーター・セラーズを起用した『紳士泥棒 大ゴールデン作戦』(1966年)だ。1960年代の『ピンクパンサー』のスピンアウトともいえる奇妙な犯罪活劇で、不器用なイタリア語のアクセント、おどけた演技、退屈なテーマ曲、そして世紀の美女ブリット・エクランドが登場する。

 

 評論家のピーター・ボンダネッラが著書の中で指摘しているように、ヴィットリオ・デ・シーカの性格(常習的なギャンブラーで、女たらし)は、ロッセリーニ監督の『ロベレ将軍』(1959年)で彼自身が演じた役柄と一致していた。まるでデ・シーカの『自転車泥棒』の主人公が、役柄同様、素人の労働者だったように。

 

 

 

 

 個人生活にも二面性があった。彼はミッテランばりの二重家庭生活を送っていた。デ・シーカは1937年にイタリアの女優ジュディッタ・リッソーネと結婚し、娘のエミが生まれた。その5年後、彼はスペイン人女優のマリア・メルカデルと出会い、交際を始めた(メルカデルの兄のラモンは、実はトロツキーを暗殺した人物である!)。

 

 リッソーネと離婚した後、デ・シーカは1959年にメキシコでメルカデルと結婚したが、この結婚はイタリアの法律では無効とされたため、1968年にフランス国籍を取得してパリでメルカデルと結婚した。その時点ですでに2人の息子をもうけていた。

 

 しかし、離婚後もデ・シーカは最初の家族から完全に離れることはなかった。ジュディッタは、娘に父親のような存在がいることを好んでいたのだ。デ・シーカはクリスマスや大晦日には時計を戻して、同じ夜に両方の家族と乾杯していた。

 

 スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーンの関係のように、この奇妙に進歩的なオープン・シークレットは、生涯にわたるカトリックの信仰によってもたらされたものであった。そして宗教は、少なくとも一度はデ・シーカの命を救っている。

 

 1930年代、彼はゲッベルスからプラハでファシスト映画の責任者にならないかと誘われたが、幸いなことに、バチカンから宗教映画『The Gate of Heaven』(1945年)の監督を依頼されたばかりだったので、彼はそれを断ることができたのだ。彼がこの映画を完成させたその日に、アメリカ軍がローマに到着した。二重の幸運であった。

 

 

 

 

 イタリアには、フェリーニ、アントニオーニ、パゾリーニ、そしてロッセリーニ、ヴィスコンティなど、素晴らしい映画監督たちがいる。しかし、デ・シーカのようにエレガントな監督はいない。

 

 彼は、世界で最も美しい女性たちと仕事をし、不朽の芸術作品を監督し、儲けたお金のほとんどを賭け事に浪費し、政治的、性的、宗教的、芸術的なプリンシプルに忠実でいようとした。

 

 映画『悲しみの青春』(1970年)のなかで、主人公ジョルジュの父親はこういっている。

 

「世界を本当に理解するためには、少なくとも一度は死ななければならない。だから、若くして死んだ方がいい。まだ立ち直って、生き直す時間が残っているうちに・・」

 

 ヴィットリオ・デ・シーカは、何度も死に、そして生まれ変わり、一度にいくつもの人生を経験したのだ。これ以上にレイキッシュな生き方があるだろうか?