WAKO : PAST, PRESENT AND FUTURE
日本の伝統を刻み続けるセイコーと和光物語
April 2022
セイコーと和光が守ってきた日本の時計の歴史と創業者服部金太郎の哲学を解き明かす。
1932年完成時の服部時計店(現・和光本館)。外装は万成石のネオ・ルネッサンス様式。2代目時計塔の四方にある文字盤はほぼ正確に東西南北を指す。「世界に二つとないもの」という服部の意向を汲み、デザインと設計は渡辺仁と渡部光雄が担当。2009年近代化産業遺産認定。
世界の大都市にはその街を象徴するランドマークがある。日本を代表する都市、東京の銀座4丁目交差点角地に位置する和光は、日本の経済復興と発展の歴史を反映してきた。同時に、常に銀座4丁目にあって正確に時を刻む優美な時計塔の姿は、日本の最先端の技術と信頼、日本人の普遍の美意識の象徴だ。
和光の前身である服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の創業は国内に近代時計産業が芽生える前の1881年。創業者服部金太郎は21歳で時計修理と舶来時計の輸入販売を開始。ビジネスの才に長けた服部は慣習にとらわれず、取引の約定を守ることで外国商館の信頼を得て、外国商館より輸入する舶来時計の新モデルを優先的に販売、成功を収める。
「常に時代の一歩先を行く」をモットーとした服部は輸入時計販売に飽き足らず、1892年、欧米に比す精巧な時計を製造することを目標に工場名を「精工舎」とし、時計製造に着手した。
1894年、銀座4丁目交差点角地の朝野新聞社屋を買収、改築。念願の時計塔を持つ新社屋が完成した。
1894年に銀座4丁目交差点に完成した初代時計塔。
服部にとってこの時計塔は特別な意味を持っていた。明治時代、日本で舶来の輸入時計を扱う服部時計店は周囲の憧憬を集め、時計塔は明治近代化と流行の最先端を担うシンボルであったからだ。
世界に冠たる時計を作るという崇高な目標を掲げ、その実現のため、多角的戦略を行った。服部商業学校設立など人材育成に注力し、創業以来、わずか10年を待たずに掛・置・懐中時計の3部門を持つ総合時計工場となる。
1895年には早くも輸出を開始し、同時に海外から最新鋭の機械を導入。積極的な設備投資を進めるなど、欧米市場から時計製造を学ぶと同時に、市場を世界に求めるグローバルな視野を持っていた。
創業20年後の1911年には大衆向け懐中時計エンパイヤ(1909年発売)のヒットにより、国産時計の60%を製造するまでに成長。部品製造から組み立てまでを自社で一括管理する垂直統合方式を採用し、利益率と生産性、技術力を飛躍的に向上させた。
左:1907年、47歳の創業者服部金太郎。「東洋の時計王」と呼ばれた。右:1916年当時の精工舎社屋全景。
その後1923年に起きた関東大震災で建て替え中の建物が全焼失。1932年に新たに竣工されたのが2代目の時計塔を持つ現在の和光本館だ。流行の発信地銀座の4丁目交差点に現れた新しいシンボルは日本国民に大きな拍手を持って迎えられ、銀座のみならず、東京、そして日本の経済復興の偉大なシンボルとなった。
1945年、第二次世界大戦が終了すると占領軍により服部時計店は接収された。1947年、服部時計店の小売部門を業務継承して株式会社 和光が設立される。
当初は銀座5丁目の仮店舗で営業をしていたが、接収が解除された1952年、現在の和光本館での営業を開始した。開業記念として、ショーウィンドウには当時を代表するデザイナーが競作。「銀座の顔」は大きな話題となったという。
こうして和光は創業者の哲学を反映し、国内外最高の品質を持つ、希少な製品を取り扱う場所として、時計のみならず宝飾品、紳士・婦人用品、室内装飾品、食品までと幅広く取り揃えることになった。
建築家渡辺仁設計、今も銀座のランドマークであり続ける和光本館。地上から時計塔までの高さは39.39m、時計塔文字盤の大きさは直径2.4m。内部からライトアップされ、昼夜を問わず正確に時刻がみえる工夫がある。建物には当時の服部時計店で扱っていた品物をシンボライズした砂時計やシンボルマークがみえる。