UNFORGETTABLE?

ナット・キング・コールの伝説

November 2021

text james medd

ラジオ番組にてフランク・シナトラと(1945年)。

 黒人アーティストのレコードが“レイス・ミュージック”として別のチャートで集計され、一般のランキングに入ることはほとんどなかった時代に、彼はあらゆるカラーのオーディエンスに愛された。“妥協した”と非難されようが、コールは白人たちによって支配されたエンターテインメントの世界で、自分の居場所をつくったのである。コールの洗練されたスタイルは、人種の壁を超えた成功をもたらしたが、彼のセックス・アピールが弱まることは決してなかった。

 ハンサムでカリスマ的な彼は、女性ファンにとっては紳士であり、しかも深夜の誘惑者であるという理想的な組み合わせで、彼はステージの上でも下でもそれを最大限に利用したのである。最初の妻ナディーンとの結婚生活、そして1948年に結婚した2番目の妻で歌
手のマリアとの生活を通じて、彼はいつも浮気をしていたが、すべての行動において慎重だった。

 またコールは、驚くべき洞察力を持っていた。1963年にレコード・ミラー紙に「私はビジネスマンだ」と発言する前から、彼は歌で得た莫大な財産を、さまざまな分野に投資していた。15万ドルの税金を請求されて目が覚めた彼は、ニューヨークのオフィスビル、プエルトリコの紙コップ会社、映画・テレビ・レコード会社の経営、さらにはボクサーのジーン・ジョーンズとの契約などに投資した。

 このようにして、1960年代初頭に、彼のスタイルがついに人気を失ったときも、彼はうらやましがられる立場にいた。ビートルズとその追随者たちが席巻していたチャートに、彼は相変わらず食い込んでいたが、彼のスウィンギング・スタイルは、新しいタイプのティーンエイジャーが求めていたものではなかった。そして、それまでは喜んで新しいことに順応してきた彼も、『Mr.Cole Won’t Rock and Roll 』という曲がはっきりと物語っているように、新しいサウンドを追いかける気はなかったのだ。

 おそらく彼はそれを見越して、ショーマンとしての才能を持つ彼のために作られた、別のメディアに移行したのだろう。彼は映画の中でのミュージカル・カメオ出演で確固たる地位を築き、俳優としてのキャリアも並行して進めてきた。

ステンカラーコートとナロータイを見事に着こなすナット・キング・コール。ロサンゼルスにて(1964年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 41
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