THE ROARING TWENTIES

ベントレー・ボーイズの伝説

February 2018

プレイボーイで、クルマを豪快に乗り回し、毎日飲み騒いでいた特権階級の一団。ふたつの世界大戦の狭間に自動車レース界を支配し、イギリス中を虜にしたベントレー・ボーイズの伝説とは?
text andrew hildreth

左から:バーナード・ルービン、ウルフ・バーナート、サー・ヘンリー・バーキン、フランク・クレメント、ジョセフ・ダッドリー・ベンジャーフィールド。フランス、ル・マンにて、1928年。

英国車史上、最も輝いていた男たち ベントレーのワークスカー(愛称「オールド・マザー・ガン」)が1929年のル・マン24時間レースでゴールを決めた瞬間は、英国がそのレース史上で、最も輝いた一瞬でもあった。ベントレーが1位から4位までを独占したのだ。

 私たちが現在自動車レースに感じる魅力や楽しさのほとんどは、歴史を遡れば、ベントレーのクルマでレースに参戦し、ザ・サヴォイで遊び狂っていた英国特権階級の子弟たちが始めたことといえるだろう。ドライバーたちは特に肩書きを意識していたわけではなかったが、いつの間にか「ベントレー・ボーイズ」と呼ばれるようになった。

ベントレー・ボーイズの誕生 ベントレーモーターズが世間に広く知られるようになったのは、フランス西部で6月に行われるル・マン24時間レースへの出場がきっかけだった。創業者W.O.ベントレーは当初、24時間もレーシングカーを運転し続けるなんて「クレイジー」だと思っていが、ジョン・ダフ、フランク・クレメント組のプライベートのベントレーが1923年に4位に入り、1924年には優勝を収めた。

 W.O.ベントレーは、天才的なエンジニアだったが、ビジネスマンとしては問題があった。クルマはレースカーとしては素晴らしかったが、製造コストがかかりすぎたのだ。役員たちはベントレーの経営に批判的で、会社はキンバリーで巨万の富を築いたダイヤモンド王の2代目、ウルフ・バーナートに売却された。

 バーナートは1925年に初めてベントレーを購入し、24時間走行の距離で世界記録を出していた。1926年にはすっかりベントレー車の虜になっており、会社を買収する決心をした。バーナートがベントレーを購入したことから、本格的なベントレー・ボーイズの時代が始まる。

 1925年のル・マンでは結果を出せず、1926年にはジョゼフ・ダッドリー・ベンジャーフィールド、サミー・デイヴィス組が最後の1時間にクラッシュした。同ペアは1927年に再び参戦した。

 スタートから約5時間半後、メゾン・ブランシュのコーナーで玉突き事故が起き、先頭集団のほとんどが巻き込まれリタイアしてしまった。デイヴィスもスリップし、横向きで数台のクルマに衝突したが、クルマはなんとか走れる状態だった。彼はよろよろとピットへ戻り、クルマを修理してから、レースに復帰した。トップとは相当の距離が開いていたが、何台ものクルマをごぼう抜きし、劇的な逆転勝利を飾る。チームは国民的な英雄としてイギリスへ凱旋することになった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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