THE IDLE WILD
輝ける命の刹那 Part 1
ジェントルマン・レーサーの系譜
March 2021
そのうちの1台は、フォードベースのコイルスプリング・ウィッシュボーン・フロントサスペンションと、ド・ディオン式リアサスペンション、およびキャデラック製のドラムブレーキを融合させたものだった。
1953年のル・マンでは、フィル・ウォルターズとジョン・フィッチが共有していた1台のマシンがレースの大半で2位をキープしていたが、機械的なトラブルでリタイアを余儀なくされた。1952年にはビル・スピアと組んで、カニンガムC2-Rで4位を獲得し、自己最高の成績を収めた。
カニンガムのル・マン優勝の夢は1955年に終わった。その後のプロトタイプ、C6-Rは24時間のうち18時間しか走らず、13位以内に入ることはなかった。
彼の野心は陸から海へと移っていった。ル・マンでの最後の挑戦から3年後、カニンガムは1958年にロードアイランド州ニューポート沖で開催されたボートレース“アメリカズカップ”で12メートル級“コロンビア”のスキッパーを務め、イギリスの挑戦者を相手に見事優勝を果たした。
特筆すべきは、最初に選ばれたスキッパーが心臓病を起こし、カニンガムがその後任となったということだ。彼と一緒に航海したビクター・ロマーニャは、なぜ彼がこの役を任されることになったのかについて、次のような説明をしている。
「ブリッグスは船を操るバイオリニストのようだった。彼は名器ストラディバリウスのように、入念な調律が必要なタイプだったが、調律が済めば、ボートのすべてをブリッグスに託すことができた。そうすれば、彼はその“楽器”を完璧に演奏することができたのだ」
レースこそが人生だ これらの男たちをレースに駆り立てたのは一体何だったのだろうか? 限界のスピードを体験したいという欲求だったのだろうか? 作家ハンター・S・トンプソンの名言“もっと速く、もっと速く、スピードのスリルが、死の恐怖に打ち勝つまで”ということだったのだろうか? 二度の大戦によって、死への恐怖が麻痺し、生きようとする純粋な意志が輝いた時代だったのかもしれない。
スティーブ・マックイーンの言葉を借りれば、“レースこそが人生だ。レースの前も後も、ただの待ち時間にすぎない”ということになる。
巨万の富を持ち、何不自由ない暮らしを満喫できたジェントルマン・レーサーたちは、命がけのレースに挑み続けた。彼らはその生命を、輝かしく燃やすことに意味を見いだしたのだ。
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