THE IDLE WILD
輝ける命の刹那 Part 1
ジェントルマン・レーサーの系譜
March 2021

カニンガムは、弱冠22歳のときに、ニューヨークの実業家の娘と結婚するために、2年間通ったイェール大学を中退した(ヨットレースへの愛が深まっていただけだったのかもしれない)。
ヨーロッパでの長い新婚旅行の間、彼はモナコ・グランプリを訪れ、サンモリッツでボブスレーを始め、ドイツ人レーサーのルドルフ・カラッチョラに6C 1500アルファロメオとメルセデス・ベンツSSをパリのホテルに届けてもらい、フランスに輸送された6メートルのヨットでリビエラのレースに参加し、カンヌのコンクール・デレガンスでメルセデスのオープンカー部門で最優秀賞を受賞した。
その後、ロングアイランド湾に面した新居に戻り、ゴルフ、テニス、アメリカと地中海を回る6メートル級ヨットレースに夢中になる生活を送った。
第二次世界大戦の勃発直前には、自家用パイロットの免許を取得し、米海軍の兵役は喘息のために断わられてしまったが、代わりに自家用機で民間航空パトロールを行い、大西洋岸の監視に注力した。
大西洋を越えてル・マンへ 彼は1948年のワトキンス・グレン・グランプリをきっかけに 自動車に対する情熱を再燃させた。スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカの創設者サムとマイルズ・コリアーにプッシュされ、彼はクライスラー、スタッツ、デュポン、デューセンバーグを駆るルーマニア王子たちが過去に成し遂げられなかったことを達成することを夢見た。大西洋を横断し、ル・マン24時間レースで本場ヨーロッパの強豪たちを打ち破るという夢だ。
彼の“フォーディラック”(キャデラックのシャシーとフォードのエンジンを組み合わせたもの)はル・マンの主催者、フランス西部自動車クラブに却下されたため、彼は1950年のレースに2台の5.4リッターのキャデラック・サルーンをエントリーした。
1台は航空機会社によってリビルトされた巨大なボートのようなモデルで、フランスの観客たちからは“ル・モンストレ(怪物)”と呼ばれた。もう1台は、彼が“プチ・パトー”(または“不器用な子犬”)と呼んだ61シリーズのクーペだった。プチ・パトーは10位で、ル・モンストレは11位でフィニッシュした。
その後、フロリダ州パームビーチにあるカニンガムチームの本社では、何台かの注目すべき車両が製造されたが、ル・マンでは全く通用しなかった。
