THE IDLE WILD

輝ける命の刹那 Part 1
ジェントルマン・レーサーの系譜

March 2021

text nick scott

左からリチャード・シーマン、プリンス・ビラ・オブ・シャム、カルロ・フェリーチェ・トロッシ伯爵。

 バーキンは、最初にフィニッシュラインを通過してもクールそのものだった。しかし彼は、ル・マン24時間レースで2勝を挙げ、ポーで開催されたフランスGPで2位に入り、ブルックランズでは記録的なラップタイムを保持していた。

 その後、悲劇が彼を襲った。1933年のトリポリ・グランプリにおいて、オーストラリアのベントレー・ボーイ、バーナード・ルービンのマセラティ8Cで参戦中、腕がマシンの赤熱したエキゾーストパイプに接触し、マラリアの影響もあって傷口が敗血症になり、最終的に36歳の若さで亡くなったのだ。

 彼のベントレー・ブロワーは、2013年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにおいてオークションにかけられ、匿名の入札者により5,149,800ポンドで落札された。

イタリア勢も負けてはいない 一方イタリアでは、バーキンからバトンを受けたかのように、カルロ・フェリーチェ・トロッシ伯爵(1908-1949年)の名が知られてきていた。銀行業を営むファミリー出身の若きエンジニアリング・マニアで、クルマだけでなく ボートや飛行機にも手を出していた。彼はイタリアのモータースポーツ界で、急速に名声を得ていた。

 友人たちからは“ ディディ”と呼ばれていたこの完璧なジェントルマン・レーサーは、ビエラにある先祖代々の城で生まれた。

 さり気なくエレガントな男だったが、レース場では速かった。彼は常にパイプをくわえており、優雅な態度を崩さなかった。

 エンツォ・フェラーリの初期の資金援助者であり、チームの主要ドライバーのひとりでもあったトロッシは、1932年にスクーデリア・フェラーリの社長にも就任した。

 最初のレースである1932年のミッレミリアでスクーデリア・フェラーリの代表として2位に入賞し、1933年のモナコでグランプリ・デビューを果たして5位に入り、その後のマイナーイベントでも何度か勝利を得ているなど、最初から成功を収めていたにもかかわらず、バーキンと同様、彼は自分のレーシングカーに不満を感じていた。

パイプをくわえたトロッシ伯爵。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 38
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