THE BUDDHA OF MOUNT STREET
ショービズの仕立て屋:ダグ・ヘイワード
February 2023
ダグ・ヘイワード(左)と俳優のマイケル・ケイン。スタジオ撮影で、ふたりで冗談を言い合っているところ(1971年)。
ジョン・レノンは『ワーキング・クラス・ヒーロー』(1970年)のなかで労働者階級の英雄について歌っている。ダグ・ヘイワードはレノンのスーツを作ってはいない(その栄誉は、60年代のサヴィル・ロウの反逆者、トミー・ナッターに譲られた)。しかし、ヘイワードはきっとこの歌に共感していただろう。
ダグ・ヘイワードの独特のスタイルセンスは、労働者階級の子として生まれ育った幼少時代に形作られた。父親はBBCでボイラーを掃除していた。金曜日の夜になると、彼らはワードローブのなかで唯一のスーツを着て外出し、街を歩いたものだった。
ロンドン・メイフェアのマウント・ストリートにあったダグ・ヘイワードのテーラーは、やがて、俳優マイケル・ケインやテレンス・スタンプ、ジョン・ギールグッド卿、写真家テリー・オニール、リッチフィールド卿など、あらゆる社会階層の人々に洋服を提供するようになった。しかし彼は自分のルーツを決して忘れなかった。
ヘイワードと30年間一緒に仕事をしたアンダーソン&シェパード ハバダッシャリーのディレクター、オーディ・チャールズは「彼は貧しいということが、どういうことかをわかっていました」と言った。
「マイケルもテリーもダグも、どんなに有名になっても、突然肩を叩かれて、『さあ、こんなことをやっている場合じゃないぞ。さっさと自分の居場所に戻れ』と言われるような気がしていたのです。彼らは皆、幸運の切符を手に入れた人たちでした。そしてダグがその中心にいました。彼は60年代という時代を体現していたのです」
左:『華麗なる賭け』(1968年)のスティーヴ・マックィーン/右:『007/私を愛したスパイ』のセットに立つロジャー・ムーア(1977年)。彼らはヘイワードの服を着ている。
ダグ・ヘイワードは、ロンドンの端にある街ヘイズで育った。サウスオール・グラマースクールに入学したが、15歳で職業訓練を受けるため退学した。「職業の先生なんていなかった」と彼は後に振り返った。
「しかし、たくさんの職業が載っている小冊子を見つけた。その中からTの項で“テーラー”の文字を見つけたとき、テーラーなんて誰も知らないし、下手とか上手とか言われない職業だろうと思った。だからテーラーになろうと考えたんだ」
彼はフラムのテーラー、ディミトリオ・メジャーで見習いとして働いた。俳優ピーター・セラーズやテレンス・スタンプといった初期の顧客は、近くのBBCや、ダグの最初の妻で映画監督バジル・ディアデンの義理の姉を通じてやってきた。自分の店を持つ際は、サヴィル・ロウは避けた。
「彼は、そのスノッブな雰囲気や上下関係、恩着せがましい態度に腹を立てていたのです」とチャールズは思い出す。
そこで、スタンプが見つけたメイフェアのマウント・ストリート95番地の邸宅を選んだ。
「マウント・ストリートは、1967年当時、小さな村のようなところでした」とチャールズは言う。「薬局、魚屋、クリーニング屋、郵便局、それに小さな金物屋がありました。銀行と肉屋の間から、人々がひょっこり顔を出すような場所でした」。
映画『ミニミニ大作戦』(1969年)のためにヘイワードとフィッティングをする俳優マイケル・ケイン(1969年)。
店は、デザイナーのジョージ・シアンチミノが内装を担当した。壁はグレイフランネルが張られ、たくさんのソファやチェアが置かれていた。それはジェントルメンズクラブであり、サロンであった。ヘイワードは店の上に住んでいて、トーストを片手に、ジャック・ラッセル・テリアを足元に、よくお茶を淹れに降りてきた。「素晴らしい顔ぶれが集まっていました」とチャールズは回想する。
「マイケル・ケイン、ロジャー・ムーア、マイケル・パーキンソン、ジョニー・ゴールド、マーク・バーリー……みんな楽しそうに喋っていました。アレック・ギネスが紅茶を飲みながら座っていました。レーシングドライバーのジャッキー・スチュワートも談笑していました。あるクライアントは、食器棚にウィスキーをキープしていました。足を上げてタイムズ紙のクロスワードパズルを解きながら、一緒にランチに行ける人を待っていたのです。そこは当時のSNSのようなものでした」