THE ARTIST'S LIFE AND THE MEANING OF DEATH

芸術家ピエル・パオロ・パゾリーニの人生と死の意味

September 2024

text stuart husband

ローマの自宅の本棚の前で(1960年)。

彼はイタリア社会のカルチャーヒーローだった ピエル・パオロ・パゾリーニは陸軍将校の息子としてボローニャで生まれた。父の転属のため、幼少期は各地を転々とした。彼は文学のなかに安らぎを見いだした。母親の出身地であり、オーストリアとユーゴスラビア(当時)との国境に近いフリウリ県で暮らしながら詩を書きはじめた。

 30代で『生命ある若者』(1955年)と『激しい生』(1959年)を著し、小説家としての地位を確立した。ローマのスラム街を舞台とした物語で、独自の作風が高く評価された。それは辛辣で宿命論的なものだった。

 これらの本は、右派からは検閲が必要だと罵られ、左派からは労働者階級の喜びが謳われていないと非難された。彼はそれによって、かえって闘志を燃やした。著作は大衆からは大きな支持を得ていたのだ。

 パゾリーニは、フェデリコ・フェリーニから『カビリアの夜』の台詞の推敲を依頼されたことをきっかけに映画界に入った。彼は映画を、豊かで柔軟な表現方法だと考えていた。彼の言葉を借りれば「現実で現実を描く」のだ。

 彼が製作した映画では、さまざまなスタイルやカラーが乱暴に飛び回っている。作り手の落ち着きのない、過激で特異な精神が反映されている。

 彼の初期の長編作品である『アッカトーネ』(1961年)と『マンマ・ローマ』(1962年)は、リアリティの追求のため、撮影はローマのスラム街で行われ、キャストはプロの俳優ではない素人が起用された。

「私はプロの監督ではない。だから私はプロの俳優と仕事をする能力がないんだ」とかつて彼は語っている。

映画『アッカトーネ』の撮影現場で、休憩中にボールを蹴るパゾリーニ(1961年、ローマ)。

 パゾリーニは、当時のネオ・リアリズムの枠を超えて、聖なるものとエロティックなものの両方を描いた。例えば1968年に製作された『テオレマ』では、ランボーの詩を読む主人公の股間がクローズアップされるといった具合だ。

『豚小屋』(1969年)は、カニバリズムと獣姦をテーマとしたブラックコメディである。フランスの俳優ピエール・クレマンティとジャン=ピエール・レオーを迎えたオムニバス映画で「私は父を殺し、人肉を食べ、喜びにうち震えた」というのがキャッチコピーだった。

 一方、『奇跡の丘』(1964年)は、ある批評家によれば、「聖書の影響を受けた数少ない傑作」である。キリスト教徒とマルクス主義者を一体化させるという離れ技をやってのけ、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞に輝いた。プレミア上映では観客たちはスタンディング・オベーションを送った。聖母マリアを演じたのは彼自身の母親であった。

 1960年代後半から70年代前半にかけて、パゾリーニは、イタリア社会のカルチャーヒーローとして祭り上げられた。彼はフランスにおけるジャン=リュック・ゴダールやベルナール=アンリ・レヴィのような存在となった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 58
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