THE ARTIST'S LIFE AND THE MEANING OF DEATH

芸術家ピエル・パオロ・パゾリーニの人生と死の意味

September 2024

ピエル・パオロ・パゾリーニは、20世紀で最も影響力があり、物議を醸した映画監督のひとりである。しかしながら彼は、志半ばにして、残忍な方法で殺されてしまった。彼の死は西洋文化に、埋めることのできない空白をもたらした。
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Pier Paolo Pasolini / ピエル・パオロ・パゾリーニ1922年イタリア、ボローニャ生まれ。父親は軍人だった。7歳で詩作を始め、42年に詩集『カザルサ詩集』を発表。教師として働く傍ら、イタリア共産党に入党する(しかし未成年の青年に対する淫行の容疑で除名)。55年に小説『生命ある若者』を発表。57年にF・フェリーニ監督の『カビリアの夜』の脚本に携わり、61年には自身の監督作『アッカトーネ』を発表。その後も精力的に映画を製作し、ヴェネツィアやカンヌ国際映画祭などにおいて多くの賞を受賞した。75年、ローマ近くのオスティア海岸で惨殺死体となって発見された。

 1975年11月23日、ピエル・パオロ・パゾリーニの最後の作品がパリ映画祭でプレミア上映された。そしてたちまち、史上最もひどく、観るに耐えない映画だと酷評された。

 その映画『ソドムの市』(1975年)は、1785年にサド侯爵が発表した悪名高い小説の舞台を、ムッソリーニ時代のイタリアに置き換えたものである。三つ巴のセックス、スカトロ、焼印、首吊り、頭皮はぎ、火あぶり……。ファシストたちのティーンエイジャーに対する拷問とみだらな行為をこれでもかと描いている。

 あるレビューは、「文字通り吐き気がする。『メリー・ポピンズ』とは明らかに違う」と評した。しかし、パゾリーニ自身はこの映画のお披露目や観客たちの反応を目にすることはなかった。その3週間前、彼はローマ郊外のオスティアの海岸で惨殺死体となって発見されたのだ。遺体は何度もクルマに轢かれたようだった。

 犯人として出頭したのは17歳の男娼で、53歳のパゾリーニと関係があったらしい。しかし少年による単独犯としては無理があり、ネオ・ファシストによる犯行とする陰謀論がささやかれた。彼は共産主義者であり、戦後のイタリアが歩んだネオ・ファシズムを批判していたのだ。残念ながら、現在も真犯人は判明していない。

映画『アッカトーネ』のセットでカメラを覗くパゾリーニ(1961年、ローマ)。

 彼は真の芸術家であり、「~イズム」といった主義主張にとらわれることを何よりも嫌った。それだけに世の中と衝突することも多かった。

 キリストについて最も敬虔な映画のひとつを撮ったが、教会と対立しカトリックを棄教していた。生涯マルクス主義を貫いたが、同性愛者であることを理由に共産党から除名された。極端な政治的発言とスキャンダラスな嗜好から、冒瀆罪やわいせつ罪で何度も訴えられた。

『ソドムの市』でパゾリーニが主張したかったのは、ファシズムや消費主義の醜さであった。その後何年も経って、この映画は再評価された。

「美しい映画だ」と言ったのは、映画監督のジョン・ウォーターズだ。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、デレク・ジャーマン、ミヒャエル・ハネケ、アベル・フェラーラ、ガス・ヴァン・サント、ギャスパー・ノエなど、『ソドムの市』に影響されたと語る監督は数多い。

 ウォーターズはこう付け加える。

「猥褻さを知的な方法で表現している。これは権力のポルノグラフィなのだ」

 パゾリーニが映画作家として活躍したのは、たった14年間だが、その影響力は計り知れないのである。

パゾリーニの小説『生命ある若者』を原作とした映画『狂った夜』のプレミアにて、女優アントネッラ・ルアルディと(1959年、イタリア、フレジェネ)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 58
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