June 2023

THE ART OF MAKING IT

アメリカを富める国とした一族たち

text nick foulkes

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアと妻アビゲイル・グリーン。

 ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの息子、デイヴィッド・ロックフェラーは、アメリカの労使関係における大事件の翌年、1915年に生まれた。

 1914年、コロラド・フューエル・アンド・アイアン・カンパニーで働く坑内員たちが、賃金や労働条件の改善を求めてストライキを起こしたのだ。彼らは社宅から追い出され、ラドロー近くのテント村で生活していた。4月20日、州兵がキャンプを襲撃し、丸1日の戦いの末、キャンプを一掃したのである。死者には、燃え盛るテントの中で窒息死した女性や子供もいた。

 “ラドローの大虐殺”は、全米に衝撃を与え、労働者たちが団結する大義名分になった。そして、多くの人が非難したのが、会社の支配者であるジョン・D・ロックフェラー・ジュニアであった。その春、末っ子のデイヴィッドはまだ1歳にも満たなかったが、父親は、小さな肺を煙でいっぱいにして死んでいった子供たちのことを考えていたに違いない。

 確かに、彼らの境遇はこれ以上ないほど違っていた。デイヴィッドは、一家の巨大な邸宅の中にある診療所で生まれた。9階建ての住宅を2棟つなげたもので、大きなホテルか集合住宅のようだった。それは当時のニューヨークで最も巨大な個人住宅であったとも言われている。

 ラドローの事件は、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアにとって“ダマスコの回心”のように重要な瞬間だったのかもしれない。彼は生涯を通じて慈善行為で知られるようになったからだ。

 実際、ウエディングケーキのような家は取り壊され、その土地はニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭、ロックフェラー彫刻庭園として生まれ変わっている。

 ジョン・ジュニアはパーク・アベニュー740番地の3層住宅に引っ越したが、このアパートメントでさえ、世界で最も高級な住宅のひとつであった。

 1960年、ジョン・ジュニアが亡くなったとき、ニューヨーク・タイムズ紙は大真面目にこう書いた。“実業家であり慈善家でもあったロックフェラー氏は、宗教、公序良俗など他の多くの分野でもリーダーだった”。

 その頃までには、一族の名前は、上手に使われたお金や美しく整えられた家によって、その輝きを取り戻していたのだ。正しい大学に通い、正しいクラブに入り、莫大な寄付をし、巨大な権力を控えめに行使してきた。

 歴史家でありジャーナリストのマシュー・ジョセフソンが“アメリカ産業界の不動の権力者”と評した者たちの中で、ロックフェラー家は間違いなく中心的な一族であった。

 2017年、101歳で死去したデイヴィッド・ロックフェラーは、ジョン・D・ロックフェラー・シニア(1839~1937年)の最後の孫であり、全く異なる時代を知る最後のひとりだった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 50
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