TALKING 'BOUT A REVOLUTION

輝ける命の刹那 Part 2
激しく駆け抜けた女性たち

March 2021

text david smiedt

ブガッティ・クイーンの愛称で呼ばれたエレ・ニース。1929年に初のウィメンズグランプリ優勝者となった。

 その結果、ニースのモーターレースへの道が開けた。彼女は、同じく1929年に第3回ジュルネ・フェミニン・ドゥ・ロートモービル(女性だけの週末レース大会)の一環としてモンレリーで開催された初のウィメンズグランプリのスタートラインについたのだ。なお、BBCが伝えたところによると、この挑戦に向けて準備をするはずの前夜、彼女は「シャンパン、モルヒネ、セックスの長い夜」を存分に楽しんだという。遊び人で有名なジェームス・ハントも真っ青である。

 そしてもちろん、ニースはレースに勝った。その颯爽たる勝ちっぷりを、ラントランシジャン紙は褒めちぎった。「あの見事な運転を見れば、女性が男性より運転が下手だと主張できないだろう」。翌日には彼女のもとにブガッティがスカウトにやってきた。そして彼女は男女ともに参加できるアクターズ・チャンピオンシップでも優勝し、ブガッティの信頼に応えたのだ。その後彼女は多くの男女混合レースに勝利し、女性の地上最速記録(=197.7kmh)も樹立。レース出場時には10万ドル相当の金額を受け取り、「群衆はいつも運転している私の髪を見たがるから」という理由でヘルメットをかぶらずにハンドルを握ったという。

 この流れに急ブレーキをかけたのが、同年のサンパウログランプリにおける事故だった。最終ラップを3位で走行中に、彼女のマシンが走路を外れた結果、6人の観客が死亡し、ニース自身も昏睡状態に陥る大怪我を負ったのだ。スポンサーたちは一気に退散したが、ニースは名誉挽回を図り、女性ドライバーを対象としてモンレリーで行われたヤッコ耐久トライアルに参加。チームは10日10晩走行し、10の記録を塗り替えた。その記録は未だに破られていない。

 しかし、1949年のラリー・モンテカルロで返り咲きを果たす希望は、彼女がゲシュタポの協力者だったという噂によって打ち砕かれた。その噂は後に事実でないと証明されたが、遅すぎた。晩年のニースは極貧の日々を送り、近所の人たちが地域の猫のために置いた牛乳を盗まざるを得ないほどだったという。こんな悲劇があるだろうか。彼女は世界人口の半数のために、道を切り開いたのに。

 時を戻して現代、状況は改善しつつある。女性ドライバーは、珍しい存在ではなくなった。嬉しいことに、2019年には18名の女性に限定したドライバーが参戦するWシリーズが発足している。ニース、エンゲマン、マルダウニーら先駆者がいなければ実現しなかっただろう。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 38
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