DEPTH CHARGE
逞しさの奥に潜む悲しみ:俳優バート・ランカスターの魅力
April 2026
Burt Lancaste / バート・ランカスター1913年、ニューヨーク生まれ。戦後ハリウッドを代表する名優のひとり。元サーカスのアクロバットという異色の経歴を持つ。映画デビューは1946年『殺人者(The Killers)』。冷酷さと哀愁を併せ持つ演技で一躍スターとなる。以後、『真紅の盗賊』(1952年)、『地上より永遠に』(1953年)、『大西部への道』(1960年)などで人気を確立。『エルマー・ガントリー』(1960年)ではアカデミー主演男優賞を受賞した。がっしりとした体格と端正な顔立ち、そして圧倒的な存在感で、アクションから社会派ドラマ、文芸作品まで幅広い役柄を演じた。1994年没。
1968年、バート・ランカスターは映画『泳ぐひと』に主演した。物語は、コネティカット郊外に暮らすネッド・メリルが、暑い夏の午後、近所の家々の裏庭にあるプールをひとつずつ泳いで渡りながら自宅を目指すという、どこか夢のような旅を描いている。
ランカスターは映画のあいだ、ずっとスピード社の水泳パンツ一枚という姿だ。批評家ポーリン・ケイルは、そんな彼を「アメリカ男の代表格」と評している。
旅の初めは明るく爽やかで、昔の友人たちは温かく迎えてくれる。ネッド自身も健康的で自信に満ち、若者のように見える。しかしプールを進むにつれて、人々の態度は少しずつ冷たくなり、周囲の空気も不穏なものへと変わっていく。過去に起きた問題や、彼が抱えている心の闇がほのめかされるようになるのである。
旅の終わりが近づくころには、ネッドは心身ともに疲れ果て、嵐の中を歩く姿には痛々しさが漂う。そして観客は気づく。この奇妙なプールの旅こそ、ネッドの心の崩壊と過去そのものを映し出していたのだと。この映画の原作を書いたジョン・チーヴァーは、ランカスターについて次のように記している。
「バート・ランカスターは52歳である。しなやかで、端正で、しかし手術痕によってわずかに傷ついてもいる。若くも老いても見え、力強さと哀愁が同居している」
チーヴァーは、当時タブー視されていたバイセクシュアルであり、アルコール中毒にも苦しんでいた。だからこそ、人が世間の目を気にしてどれほど必死に取り繕おうとするのかを、誰よりもよく理解していたのである。そんなチーヴァーは、ランカスターの演技が持つ魅力を正確に捉えていた。それは、「逞しさの奥に潜む悲しみ」である。
映画『地上より永遠に』よりスコットランド女優デボラ・カーと(1953年)。
ランカスターは水が苦手で、撮影に備えてUCLA男子水球チームのコーチを雇い練習を重ねていた。それでも映画の中では、つらい場面でもどこか澄んだ落ち着きのある演技を見せている。若いころサーカスでアクロバットをしていたときの運動神経が、そのまま体に残っているかのようである。同じような魅力を持っていたのは、やはり元アクロバットであり、彼の友人でもあったケーリー・グラントやカーク・ダグラスくらいだろう。
ランカスターは、自分の中にある矛盾をうまく演技に生かすことができる俳優であった。やさしい笑みの裏に隠れる強い怒りや、静かな声だからこそ際立つ脅し文句など……彼はその二面性を多くの作品で発揮した。
たとえば、『エルマー・ガントリー/魅せられた男』(1960年)では熱狂的な説教師を演じ、この作品で唯一のオスカーを受賞した。『ニュールンベルグ裁判』(1961年)では罪の意識に苦しむドイツ人を、『終身犯』(1962年)では、長い死刑囚生活の中で鳥類学者として知られるようになった男を演じた。ランカスターが演じた人物たちは、どんな過ちを抱えていても、人を惹きつける不思議な魅力があった。しかし彼らは、けっして同情を求めることはしない。「私のことで悲しむ必要はない。切れてしまったものは、もう戻らないのだ」̶̶『終身犯』で主人公が看守に語るこの言葉は、まさにその姿勢をよく示している。
元アクロバットだったランカスターは、演技でも生き方でも、いつも軽やかに方向を変えることができる人だった。「私のキャリアを振り返れば、同じ型にはまったことがないのが分かるはずだ」と彼は語った。
「自分の才能をどう生かすかを考え、つねに新しいことに挑戦してきた。世間が一度『あなたはこういう人だ』と決めてしまえば、そこから抜け出すのは難しくなるからだ」と。
今日の若い俳優たちは、アスリートのような体づくりを求められることが多い。しかしランカスターはその逆で、生まれながらのアスリートでありながら、自分自身を俳優へと育て上げた人である。
1960年度アカデミー賞受賞者。左からピーター・ユスティノフ(助演男優賞)、シャーリー・ジョーンズ(助演女優賞)、エリザベス・テイラー(主演女優賞)、バート・ランカスター(主演男優賞)。
はじまりはサーカスだった 彼は1913年、ニューヨークでバートン・スティーヴン・ランカスターとして生まれた。父親は郵便局員で、家族はイーストハーレムの細長いアパートに暮らしていた。ランカスターはよく「もし運動と公共図書館がなかったら、自分は警官か犯罪者になっていたかもしれない」と語っている。実際、兄は警官になり、幼なじみの多くは刑務所に入ってしまったという。
14歳のときには、すでに身長6フィート2インチ(約188cm)に達していた彼は、ニューヨーク大学でスポーツの奨学金を受けた。大学ではバスケットボール、ボクシング、陸上、体操で才能を発揮し、その一方で本を読みあさり、空いた時間にはオペラ歌手になる夢を見ていた。
そして、入学から2年ほど経ったころ、ランカスターは大きな決断をした。彼の“弟子”でもあった映画監督シドニー・ポラックの言葉によれば、「彼はサーカスに駆け込むようにして入団した」のだ。ランカスターは幼なじみのニック・クラヴァットと、平行棒を得意とするアクロバット・デュオを結成した。最初はケイ・ブラザーズの一座で働いた。日当3ドル、3食付きというシンプルな待遇だった。ふたりは5年間技を磨き続け、ついにはサーカス界の頂点であるバーナム&ベイリーの舞台に立つまでになった。しかし、「どこかぴたりと来なかった」とランカスターは後に振り返っている。
「何かが足りない気がしたんだ。だって私は、ただ棒にぶら下がっているだけじゃなくて、人々に話しかけたかったんだ」
カリフォルニア州ハリウッドのレストラン「ロマノフズ」にて、妻ノーマとともにいるランカスター(1958年)。
ランカスターが本格的にチャンスをつかんだのは、第2次世界大戦で徴兵されてからである。彼は第五軍特殊業務部隊での仕事につき、北アフリカ、イタリア、オーストリアを、兵士ピアニストの譜めくり係として旅をした。しかし、そのイタリア滞在中に、彼の人生を変える出会いがあった。U.S.O.(米軍慰問団)の芸能活動をしていたノーマ・アンダーソンと出会ったのだ。彼女はのちに妻となり、5人の子どもをもうけた。
アンダーソンは戦後、ニューヨークのプロデューサーのもとで働くようになった。あるとき彼女を訪ねてきたランカスターを見て、そのプロデューサーは、彼の落ち着いたたたずまいと存在感に心を奪われた。そして彼を『A Sound of Hunting』という舞台の軍曹役に起用したのである。
この舞台をきっかけに映画界から声がかかり、ランカスターは1946年の『殺人者』でスクリーンデビューを果たすことになった。ヘミングウェイ原作のハードボイルド作品で、彼は過去を背負った落ちぶれたボクサーを演じ、一気に注目を集めた。まるで噴火する火山のような魅力を放つエヴァ・ガードナーと共演しても、ランカスターの存在感は少しも揺らぐことがなかった。











