BIRDS of PLAY

セレブの巣、ストーククラブの伝説

August 2023

text stuart husband

満員の店内(1946年)。

 1929年にカーネギーホールから1ブロックのところにオープンしたクラブは、禁酒法違反で閉鎖された後、東51丁目53番地の5階建てのタウンハウスに移った。

 ビリングスリーの回想録には、マフィアとの関わりについても書かれている。ストーククラブはもうひとつの有名なクラブ、“コットンクラブ”のオーナー、オウニー“ザ・キラー”マドゥンら、凶悪なマフィア3組の隠れ蓑となっていたという。

 全盛期であった1936年には、ストーククラブの年間売り上げは100万ドルに達した。ビリングスリーは誘拐され、身代金を要求されたことまであった。また、7階の個人事務所にドクロやクロスボーンがかけられていたこともあった。

「絵やスケッチではなく、本物のドクロとクロスボーンだ」とビリングスリーは述べている。

 ビリングスリーは、フランク・コステロやダッチ・シュルツのような大物マフィアを手厚くもてなし、こうしたトラブルから抜け出す方法を買ったのだ。

 これは、彼の天才的なマーケティング・センスの一面に過ぎない。彼は、ウエスタンユニオン銀行の事務員からハリウッドやブロードウェイのスターたちの住所を聞き出し、招待状を送り続けた。金持ちや有名人には、ワイン1ケースから5,000ドルの香水(100歳の誕生日を迎えた女性に贈られた)までをプレゼントし、常連として店に来てもらうよう促した。

 男性はタキシード、女性はイブニングガウンというドレスコードを定め、トップハットとモノクルを身に着けた“ウェーディングバード”を入れた洒落たクラブのロゴをデザインして、この店のエレガントさとエクスクルーシブ性を強調した。灰皿やネクタイ、ジュエリー、ベルトやブレイシズなど、あらゆるものにブランド名を刻印し、パーティの土産として友人や常連客に配った。こういったことは今では当たり前となったが、始めたのはビリングスリーなのである。

「第二次世界大戦という大きな助けもあって、映画スターが集まってくるようになった」と彼は述べている。

 もうひとつ、ストーククラブがセレブ文化のパイオニアとなった理由がある。それは、いつも50番テーブルに陣取っていたゴシップライター、ウォルター・ウィンチェルの存在である。

 ウィンチェルはその時代、アメリカで最も金を稼いでいたジャーナリストだった。1940年の年収は80万ドルだった(現在の貨幣価値だと約1,700万ドル=約20億円)。

クラブのピアニストに話しかける歌手フランク・シナトラ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 52
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