業界で「超兄貴!」と親しまれる
清水宗己さん
Tuesday, July 25th, 2017
清水宗己さん
編集者、ライター、コピーライター、放送作家、スキッパー、超兄貴
text kentaro matsuo photography tatsuya ozawa
さまざまな肩書きを持つ、清水宗己さんのご登場です。
私が清水さんと初めてお会いしたのは、今から20年以上前のことです。当時は雑誌メンズ・イーエックスの創刊スタッフとして活躍されており、圧倒的なパワーと造詣で、編集の現場をグイグイと引っ張っておられました。その頃の私はまだ20代のぺーぺーで、清水さんに言われるがままに駆けずり回るばかりで、その圧巻の仕事ぶりを、目を丸くして眺めていたものです。
清水さんは、海外を転戦するような本格的なレースにも参戦する、プロのヨットマンでもありました。いつも真っ黒に日焼けした肌と、筋肉隆々の体、そして豪快な性格から、皆に“超兄貴”と呼ばれていました(兄貴を超えた兄貴ということで)。今回久しぶりにお会いしましたが、その超兄貴っぷりに、いささかの衰えもありません。
撮影現場にTシャツと短パンに現れた清水さんは、開口一番、
「いやぁ、沖縄でレースに出て来たばかりなんだけど、いろいろやっちゃってさぁ・・・手首をひねって手がパンパンになっちゃったよ」と破顔一笑。
見れば左手は大きく腫れており、膝小僧には大きなバンソウコウが貼ってあります。まるでガキ大将(失礼!)のようなお姿です。しかしこれで御年70歳なのですから驚きです。
コットンのスーツはバタク。生地は昔のハリソンズを使って、アメトラ風に仕上げてあります。
「いつもはTシャツに短パンばかりだけど、ヨット関係はパーティも多い。そういう時には、スーツも必要なんだ。しかし胸板が厚くて骨太なので、既製品だと合わない。そこで友人から薦められたバタクで、一着誂えてみることにしたんだ。実際に作ってみたら、オーソドックスで着やすくて、すごくよかった。今ではスーツ3着に、ブレザーも持っているよ」
ボタンダウンのシャツもバタク。素材はギザのロイヤルオックス。
メガネはルノア。
「ヨットに乗りすぎて目が焼けてしまった。だからいつもサングラスが必要なんだ。ルノアはシュツットガルトにある工房へ取材に行ってからファンになった。これはグローブスペックスの岡田哲哉さんに作ってもらったもの。彼は検眼が上手だから安心して任せられるね」
実は私も、岡田さんに作ってもらったルノアを愛用しています。
時計はジラール・ペルゴのトノータイプ。
「買ったのは90年代前半かな。当時のメンズ・イーエックスの時計担当に薦められてね。前社長のルイジ・マカルーソ氏とは何度も会ったことがある。もう死んじゃったけど、いい人だった・・」
シューズはジェイエムウエストン。90年代にずっと通っていたジュネーブで買ったもの。
「若い頃はVANの影響で、アメリカン・トラッドが流行っていた。昔はアメ横へ行って、ハナカワや小池といった店でよく買い物をしたな。今でも基本的にはアメトラが好きだ」
清水さんは、学生時代からコピーライターとして仕事を始め、スタヂオ・ユニ、サン・アド(元サントリー宣伝部)、ブルータス、ターザンなど、超一流処を渡り歩いて来られました。
「サン・アド時代に、オーストラリアからハワイまで回る、大きなヨットレースに出場できるチャンスがあって、どうしようか迷っていたら、当時の上司に、『そんなもの簡単だ。今すぐ辞表を書け。滅多にないチャンスなんだろ』と言われた。それが開高健さんだった」
その後、1980~90年代にかけて、日本の広告・マスコミ業界が、最も輝いていた時代を駆け抜けました。
「80年代には、毎月のようにロサンゼルスへ行っていた。当時は円が強かったから、日本でロケするより、その方が安かったんだ。札束を抱えていって、外国人スタッフ全員に、毎日現金でギャラを払っていた。パタゴニアのイヴォン・シュイナードと知り合ったのもその頃。ベンチュラの本社は肉屋の建物をリノベしたもので、近くには社員のためのアウトレットがあった。そこでずいぶんと買い物をしたよ」
小さくまとまってしまった今の編集者と違って、清水さんの時代は何もかもが豪快です。
「南米のインディオの結婚式を取材することになったんだ。ところが直前になって、『カネがなくて、式が挙げられない』という。『どうすればいいんだ』と聞いたら、『とりあえず牛一頭あれば、なんとかなる』ときた。だから本当に牛一頭買ってプレゼントしたんだよ。その牛を丸ごと焼いて食べたんだが、中の方は生焼けで、アレには閉口したなぁ(笑)」
こういったエピソードは、枚挙に暇がありません。
さらに清水さんは、横浜の伝説のライダース・クラブ“ケンタウロス”のオリジナル・メンバーでもあります。
「ボスの飯田さんは、もともとは関内の本屋の息子なんだ。東洋大の哲学科を出たインテリでね。そこで声をかけられてケンタウロスに入った。だからイメージとは違うかもしれないけど、ケンタウロスはとても知的なクラブで、メンバー13人のうち4人はクリエイターだったんだ。雑誌“ライダース クラブ”の創刊を手掛けたのも、ケンタウロスのメンバーたちだった」
昔の雑誌は面白かったと言われますが、それは清水さんのような人たちが手掛けていたからでしょう。
「面白い人が作る本が、面白い」
現代のサラリーマン編集者としては、反省することしきりです。
超兄貴! また、いろいろと教えて下さいね!