From Kentaro Matsuo

THE RAKE JAPAN 編集長、松尾健太郎が取材した、ベスト・ドレッサーたちの肖像。”お洒落な男”とは何か、を追求しています!

アメリカと日本の架け橋:大坪洋介さん

Monday, October 10th, 2022

エヴァンジェリスト

 

 

text kentaro matsuo

photography tatsuya ozawa

 

 

 

 

 東京・世田谷区にも渓谷があるのをご存知ですか? 多摩川の支流、谷沢川の流れ沿いに広がる等々力渓谷です。環八の喧騒から離れ、高級住宅地を進むと、あたりは嘘のように静かとなり、うっそうと茂る緑に突き当たります。今回ご登場頂いた大坪洋介さんのガレージは、その等々力渓谷に面しています。取材日は残暑が厳しい一日でしたが、渓谷からは時折涼しい風が吹いてきます。

 

「私は実はアメリカ国籍なのです。50歳のときに娘が生まれ、彼女を二重国籍にしたかった。しかし、私も妻も日本人だったので、私が日本国籍を放棄し、アメリカ国籍を保持したのです。アメリカという国は、いくつ国籍を持っていても何もいわない。しかし日本は違うので、そういった選択となりました」

 

 えええ、そんなことできるんですか? 初めて知りました。しかし、それは大坪さんが、29年間という長期にわたってアメリカに滞在され、アメリカと日本のために尽力したからこそ可能となったのでしょう。

 

「ちなみにスターアライアンスはミリオンマイラーで、一生ゴールド会員です(笑)」

 

 驚きのエピソードはこれだけではありません。

 

「U2のボノとは親しくしていて、さいたまスーパーアリーナで来日公演をしたときは、彼から連絡があり『ヨースケ、どの日に来られる? 俺たちは六本木のホテルからクルマで行くから、一緒に乗っていけば?』と誘われ、ボノと往復をともにしました。公演で隣の席にはエリック・クラプトンが座っていました」

 

「ビバリーヒルズの隣の超高級住宅地ベルエアにあるミラ・ジョヴォヴィッチの家に呼ばれて、ブランド立ち上げの相談に乗ったこともあります。デヴィッド・バーンにシトロエンDSを売ったこともあったなぁ」

 

 

 

 

 一体どういう人生を歩んできた方なのでしょうか?

 

「1956年、鹿児島生まれです。3歳から18歳までは宮崎で育ちました。自転車レース、そしてサーフィンにのめり込んでいましたね。1976年にはサーフィンの全日本大会にも出場したんですよ。まぁ当時のサーフィンは、360度ターンなんてなかったから、ボードの上にちょっと立てれば勝てたんですが(笑)」

 

 子供の時から、お洒落には並々ならぬ興味をお持ちだったとか。

 

「叔父のツテでアメリカの『サーファー・マガジン』を入手していたから、本場カリフォルニアのサーファーがどういう格好をしているのかは知っていました。しかし宮崎はおろか日本中探しても、当時アメリカ製のサーフトランクスなんて手に入らなかった。そこで母と生地屋へ行って、輸出用のB品生地を買ってきて、似たようなものを作ってもらっていました。でもウエストにはゴムが入っているだけだから、波にもまれるとすぐに脱げてしまった(笑)」

 

 18歳で上京し、学生生活中に厚木の米軍基地でペンキ塗りのバイトを始めます。

 

「ベースのゲート正面には米兵相手のオーダーシャツ屋があった。そこでワーク風のシャツなどを仕立てていました。またビスポーク靴店では、オリーブグリーンの象革でワークブーツを誂えたことを覚えています。ニール・ヤングのLPレコードを指差しながら、『これと同じものを作ってください』と言ってね(笑)」

 

 アメリカへ渡ったのは、いわゆる“自分探し”のためだったそう。

 

「大学生のとき、職業別電話帳を手にとって、頭から終わりまで全部目を通してみたのです。しかし、自分がやりたいと思う仕事は、ひとつも載っていませんでした。そこで当時珍しかった宝石鑑定を勉強することを思いつきました。ロサンゼルスにGIAという鑑定学校があることを知り、そこへ入学することにしました。ロスを選んだのは、もちろんサーフィン目当てです(笑)」

 

 サーフィンの傍ら、ライブなどにもよく顔を出したとか。

 

「セックス・ピストルズ、ラモーンズなど、全部ナマで見ましたよ。ジャズも好きで、パリジャンルームという店で聞いたマックス・ローチの演奏はよかったな……」

 

 そんな時、jipijapa(ヒピハパ)デザイナーの加賀清一さんと運命の出会いをします。

 

「加賀さんに、『君は洋服が好きそうだから、こっちの世界へ来たら?』と言われたのです。そして、師匠が知っている生地屋、セレクトショップなどを全部紹介して頂きました。加賀さんはロスへ来ると、いつも私のアパートに泊まっていましたよ」

 

 それからデッドストックやアンティークウォッチの輸出を手掛けるようになり、ビジネスは少しずつ大きくなっていきました。

 

「服と一緒のコンテナに、カルマンギアやビートルといったクルマを載せたこともありました。プラダのファッション誌用の撮影などで、ロケーション・コーディネイトの仕事もしていました」

 

 英語はいつ学ばれたのですか? との問いには、

 

「全部ロスへ行ってから覚えました。はじめの頃はレストランで、サラダドレッシングは“サウザンアイランド”しか頼むことができませんでした。それしか単語を知らなかったからです(笑)」」

 

 ニューヨークでは、後に世界のメンズ・ファッション界の重鎮となるアラン・フラッサーに出会いました。

 

「80年代の半ばだったと思いますが、初めてアラン・フラッサーに出会った時は、彼はまだほっそりした体型でした。ジャケットとトラウザーズの位置関係が素晴らしく、絶妙な着こなしだったこと思ったことを覚えています。『日本のエージェントは誰かいますか?』と聞いたら、『いない』というので、私が扱うことにしました」

 

 それからは、リーバイス、J.リンドバーグ、EVER、ROGAN、ストロングホールドをはじめ数え切れないほどのブランドを手がけられてきました。リーバイス ヴィンテージ クロージングでは、日本を含むアジアと中東、アフリカのセールス&マーケティング・ディレクターも務められました。

 

 前述のセレブ人脈は、そんななかで培われたもの。まさに“レジェンド”と呼ぶに相応しい存在です。

 

 そんな大坪さんの着こなしを拝見してみましょう。

 

 

 

 

 帽子は、神奈川県・茅ヶ崎のSashikiというお店のもの。

 

「15年ほど前に、たまたま茅ヶ崎の鉄砲通りを散歩していて見つけた店で、オーナーは女性です。8枚接ぎのハンチングで耳あてが付いているのは私のオリジナル。ツイード製のこれは『この部分には、この柄』と細かくお願いして作ってもらったお気に入りの品です」

 

 メガネは、ルノア。

 

「グローブ スペックスで買ったものです。創業者ゲルノット・リンドナーのファンで、彼が新しくブランドを作る度にフォローしています」

 

 

 

 

 シャツは、大坪さんのブランド、Otsubo Shirts。

 

「日本橋三越のパーソナルオーダーサロンには私のコーナーがあって、そこでシャツを誂えることができます。私は昔からシャツにはこだわりがあって、ニューヨークのバーグドルフ グッドマンなどでよく仕立てていました。このターンナップカフは、昔々バーグドルフの店員から『ジェームズ・ボンドが着ているのと同じだよ』教えてもらったものです。てんとう虫は幸運のシンボル。下部分がラウンドした胸ポケットは、愛車にちなんで“バックラーポケット”と名付けました」

 

(愛車については後ほど……)

 

 スカーフは、エミリオ・プッチのヴィンテージ。

 

「これは1960年代くらいのものです。もうこのへんのものが好きで、好きで……(笑)。ヴィンテージ・スカーフだけで3桁枚は持っています」

 

 ツイードのジャケットも、Otsubo Shirts。

 

「日本橋三越の山浦勇樹さん(当ブログにもご登場済)と話していて、今までオーダーに興味がなかった既製服を着ている人や、若い人にも買ってもらえるような服を作りましょうということになりました。そこでマッキノークルーザー・タイプのジャケットをデザインしました。オリジナルはメルトン系の厚い生地を使っていますが、私のブランドのものはカシミアやカシミアシルク、ハリスツイードなど軽めの生地を選んでいます。インナーはシャツでもニットでもOKです」

 

 

 

 

 時計は、H.モーザー(たぶん)。

 

「1970年代にロスで買いました。当時時計は、質屋や修理屋でいくらでも買えたものです。アンティーク・ウォッチを数百本仕入れて、トランクに入れて帰国したこともありますよ(笑)」

 

 現在のH.モーザーとはまったく違う、アール・デコ調のデザイン。モーザーは1979年に一度廃業していますから、これはそれ以前のモデルでしょうか? どなたか詳しい方、教えて下さい。

 

 ブレスレットは、エルメス。

 

「マルタン・マルジェラがデザイナーをしていた2000年に発売された“クレッシェンド”です。ひと目見て気に入って、ビバリーヒルズのエルメスまで買いに行ったことを覚えています。もう20年以上愛用しています」

 

 

 

 

 ジーンズは、リーバイス501をカスタマイズしたもの。

 

「ベースはリーバイス ヴィンテージ クロージングの501XXの大戦モデルです。これをリーバイス マスターテーラーの山本美緒さんに頼んでカスタマイズしてもらいました。まずウエスト後ろ部分にプリーツを入れて詰め、裾はダブルカフス仕立てにして、センタークリースを入れて穿いています。ジーンズはアーティストが絵を描く前のキャンバスのようなものだと思っています。ツーサイズ大きめをベルトで締めて穿くのもいいし、ワンサイズ小さめをボタンを外して着てもいい。作家に刺繍をしてもらったり、いろいろと楽しんでいます」

 

 

 

 

 ベルトは、エンジニアドガーメンツ。

 

「これは消防士が着けているベルトをモチーフとしたものです。クイックリリースがついていて、バックルの部分が外せるようになっています。このタイプが好きで、色違いで何本か持っています」

 

 

 

 

 キーホルダーは、ビルウォールレザー。

 

「90年代にマリブにあったビル・ウォールのアトリエで手に入れたものです。以前、駆け出しの頃のリチャード・スターク(クロムハーツ創業者)がレザー素材の見本をバイクで持参されていたのを覚えています。ビルと一緒に仕事をしていた頃、彼は新しいアイテムを作ると、シリアル番号1番は自分のために、そして2番はたいてい私のために作ってくれたのです」

 

 同行したカメラマンの小澤くんが「すげーっ、すげーっ」を連発していました。

 

 

 

 

 シューズは、オールデン。

 

「コードバン製です。珍しい色でしょう? サンフランシスコで買いました。リーバイス本社での会議に出席するため、サンフランシスコへはよく行っていたんです。店員から『ヨースケのために取っておいたよ』と渡された一足です。私はウィズがEなので、日本ではなかなか手に入らないのです」

 

 きれいな色のソックスは、英国パンセレラ。

 

 これは、大坪さんならでは。誰にも真似できない着こなしです。もう手に入らない超レアなアイテムも多いですから……。

 

 

 

 

 超レアといえば、バックに写っているクルマです。

 

「これは英国のバックラーというメーカーのDD2というクルマです」

 

 へえ、まったく知りませんでした……。

 

「私は20代の頃から、ヴィンテージカーが大好きでした。特にシトロエンDSには思い入れがあり、今まで十数台のDSを乗り継ぎました。同時に8台のDSをL.A.で持っていたこともあります。今もアメリカの友人の家にはDSが置いてあります」

 

 トーキングヘッズのデヴィッド・バーンに譲ったのも、そのうちの1台です。

 

「このバックラーも大好きなクルマです。DD2は数十台しか作られておらず、1958年製の同じボディ形状を持つクルマは、たぶん世界で2台しかありません。もう1台はオーストラリアか、ニュージーランドにあります。車体はチューブラーフレームで組まれていて、車重は500kgちょっとしかない。エンジンはBMC製の1,500ccですが、軽いからこれで十分なんです。ドライバーが乗った時に重量配分が適切になるように、エンジンが助手席側にオフセットしてあります。とにかく素晴らしいクルマです」

 

 屋根はおろか、フロントガラスもないのですね、と伺うと、

 

「そうなのです。ですから運転する時はゴーグルが欠かせません。助手席に娘が乗る時は、フルフェイスのヘルメットを被せています。クーラーもヒーターもないから、夏と冬は大変です。それにこれに乗っていると、私がどこにいたか、すぐにバレてしまう(笑)」

 

 このクラスになると、今までのオーナー履歴や現在の所有者は、明らかにされていることが多いそうです。

 

「私は前のオーナーを知っていて、我慢しきれず『譲ってください』とお願いしたのです。先方も『大坪さんなら……』ということで快諾してくれました。創業者のデレク・バックラーの息子さんとは今でもメールでやりとりをしています。ガレージで眠らせておくのではなく、コッパ ディ 東京などのクラシックカーのイベントには、積極的に参加しています。メンテナンスも自分でできることはすべてやります。英語では“カストリアン”というのですが、私はこのクルマの“一時預り人”だと思っています。歴史を継いで、次の世代に渡すために、いま一生懸命手入れをしているのです」

 

 そういえば、大坪さんの名刺には、肩書に“Evangelist(エヴァンジェリスト)”と書いてありました。

 

「エヴァンジェリストは、“伝道師”という意味です。今まで見てきたこと、出会ってきたことを、これからは多くの人に伝えていきたいのです」

 

 そう語る大坪さんの姿は、まさにレジェンドそのものです。

 

「でも私だって、まだまだ美しいものを見ていきたいし、美味しいものだって食べたいと思っているんですよ!」

 

 そう仰った笑顔は、いまだ少年のようでもありました……。