HOW MONACO BECAME A GLAMOUR POWERHOUSE

モナコはいかに「地中海の宝石」になったか?

August 2022

リヴィエラのマイクロ国家モナコのモットーは、「神の助けを借りて」となっている。

しかし、戦後のモナコをプレイボーイの遊び場に変えたのは、3人の人間たちだった。

 

 

by NICK SCOTT

 

 

モナコ・グランプリでフェラーリ312を駆り、2位につけるロレンツォ・バンディーニ(1966年)。

 

 

 

 1949年5月、レーニエ・ルイ・アンリ・マクサンス・ベルトラン・ド・グリマルディは、1297年からモナコを治め続けるグリマルディ王朝の33番目の継承者となった。フランス・アルプスと地中海に挟まれた、ニューヨークのセントラルパークより狭いその領土を、「ミニ・マンハッタン」に変えることは、とても難しそうに見えた。

 

 モナコは1836年から1933年まで、フランスで違法とされていたギャンブルで利益を得ていた。しかし彼が即位した年、ソシエテ・デ・バン・ド・メール(SBM=モナコのカジノやいくつかのホテル、ツーリスト・アトラクションなどの権利を持つ不動産会社。筆頭株主はモナコ公国)は大きな損失を出していた。戦後、リヴィエラの他の場所との競争が激化したのだ。モンテカルロのカジノは、戦前と比べて75パーセントの営業損失と90パーセントの入場者数の減少に見舞われた。

 

 

 

1890年頃のモンテカルロ・カジノ。

 

 

 

 レーニエとモナコの運命を左右したのは、全く異なる世界からやってきたふたりの人物であった。

 

 戴冠式の直後、かつてジェノバ人の要塞だった皇太子宮殿で、大胆な計画が画策されていた。レーニエをアメリカの映画スターと結婚させて、モナコを世界的に有名にしようというものだ。

 

 第一候補はマリリン・モンローだったという噂があるが、彼女は乗り気ではなかったらしい。彼女はモナコがアフリカかどこかにあると思っていたのだ。その後間もなく、裕福な家庭の子女で、既にトップスターだったグレース・ケリーが、より現実的な選択肢として浮かび上がってきた。彼女はその前年、ケーリー・グラントと共演したアルフレッド・ヒッチコック監督の『泥棒成金』(1955年)の撮影中に南フランスを訪れ、その地に魅せられていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 1955年5月、彼女は写真撮影のためにレーニエの宮殿を訪れた。レーニエはグレースをひと目で気に入り、この後もまた会おうとしつこく誘った。そして1年もしないうちに、グレースはレーニエのプロポーズを受けるのである。ハリウッドのコラムニスト、ドロシー・キルガレンは、1956年に行われたレーニエとグレースの結婚式について、こう述べている。

 

「これほど多くのジャーナリストが、最終的にはふたりが “I do “という言葉を口にするだけのイベントに、こんなにも長い間集中したことはなかった」

 

 この結婚式には、エヴァ・ガードナー、ケーリー・グラント、グロリア・スワンソンなどが招待客として参加し、世界で約3000万人が視聴したと推定されている。26歳のグレースは、約140もの新しい称号を25分かけて読み上げた。

 

 

 

 

 

 

 もうひとり、モナコを発展へと導くことになったのが、レーニエの旧友でギリシャの海運王アリストテレス・オナシスである。1951年、彼はSBMの大株主となっており、公国の第二の支配者、レーニエのフィクサーであった。

 

 しかしオナシスがモナコの将来として描いていたビジョンは、レーニエが抱いていたものとは違っていた。ヨット「オリンピック・ウィナー号」でポートヘラクレスに出入りしていたオナシスは、将来のモナコを国際社会の最高クラスが集う「海に面したラスベガス」のような場所にしたいと考えていた(ハリウッドスターを呼び寄せる計画を立てたのも実は彼だった)。法外な値段のリゾートホテルや贅沢なヴィラ、港にはスーパーヨットや豪華客船が停泊しているような街である。

 

 

 

 

 

 

 一方、ギャンブルを嫌う学者肌の父親に育てられたレーニエは、街を国際的な観光地でタックス・ヘイヴン(租税回避地)にしたいと考えていた。

 

 レーニエはオナシスの資金援助を得るために妥協を重ねていたが、次第にふたりは反目し合うようになった。そしてレーニエは、かつてサマセット・モームが「日陰者のための、日当たりのいいところ」と評したこの場所から、ゴロツキを一掃することに着手した。彼が残した大きな功績のひとつが、モナコ・グランプリの復活である。

 

 しかし、彼には「ヨーロッパで最も横暴な君主」という評判がついて回った。1959年には、権力を侵害するとして憲法を停止した。その2年後には、国民議会を廃止し、新たな立法府へと置き換えた。

 

 また、フランス大統領シャルル・ド・ゴールとの対立もあった。モナコがフランスの租税回避地になっているとして、モナコに経済制裁を科すと脅してきたのだ。これは両者の妥協案でなんとか解決された。

 

 その間にも、レーニエとオナシスの関係はますますこじれていった。オナシスはレーニエの人脈づくりにおいて八面六臂の活躍をしてきたが、同時にSBMに多額の投資を行い、株式の52%を所有するまでになっていた(対するレーニエは2%)。

 

 

 

 

 

 

 1967年、レーニエはSBMの株を大量に発行し、政府に購入・保有させることで、オナシスの持ち株比率を33%未満にまで激減させた。かつてオナシスのヨットが停泊していた港に、ぽっかりと空洞ができたのはそれから間もなくのことだった。

 

 戦後のモナコの大事件といえば、1982年9月に起きたグレース公妃の自動車事故であろう。運転していたクルマが断崖絶壁から飛び出し、彼女は死亡したのだ。

 

 今日、この「地中海の宝石」を訪れる人々は、レーニエ、グレース、オナシスという3人の人物の間で、愛と金と闘争心が錯綜した15年間に思いを馳せるべきだろう。