IN MEMORIAM: THE STORY OF EDWARD SEXTON

追悼:エドワード・セクストンの物語

August 2023

ひとりが社交界の花形であった一方、もうひとりは工房で魔法のような手腕を発揮した。トミー・ナッターとともにサヴィル・ロウに新しい風を吹かせたエドワード・セクストンの人生に迫る。

 

 

text tom stubbs

photography luke carby

 

 

 

 

 去る2023年7月23日、英国の偉大なテーラー、エドワード・セクストンがこの世を去った。享年80歳であった。以下はTHE RAKE(INTERNATIONAL EDITION)、 ISSUE 38(2015年発行)に掲載されたセクストンの記事である。

 

 

 トミー・ナッターとエドワード・セクストンは、1969年のバレンタインデーに“ナッターズ”をオープンさせた。サヴィル・ロウでは、100年ぶりとなる新会社設立であった。60年代は“ハプニングの時代”だったとはいえ、サヴィル・ロウはイノベーションからはほど遠いところだった。

 

 とはいえ、神聖な場所だからといって、ふたりのパイオニアが臆することはなかった。彼らは新しいビジネスに全力投球した。クリエイティブな使命感に燃えただけでなく、生き残っていく必要があったからだ。アルチザン的な要素と強烈な個性のミックスし、ユニークで独創的、そして息を呑むほどシックな服を生み出した。

 

 テーラーであるエドワード・セクストンの物語を語るには、トミー・ナッターとのパートナーシップについて、そして彼らがともに生み出したスタイルの伝説について語らなければならない。

 

 まず第一に、エドワード・セクストンはクラフツマンシップへの憧憬があった。彼はロンドン南西部、ボーシャンプ・プレイスにあるアトリエのアームチェアに腰かけて、THE RAKEにこう語ってくれた。

 

「私はいつも手仕事や裁縫に惹かれていました。最初はイーストエンドで働いていましたが、サヴィル・ロウという名前がずっと気になっていました。すべて手作業で服を作り、客層もかなり違うと聞いていましたから。仕事を学ぶのなら最高の場所で学びたい、そう思うようになったのです」

 

 1956年、彼は『Tailor and Cutter』(今は廃刊となった業界誌)に掲載されていた見習い募集広告に応募して、“ミスター・キングリー”に雇ってもらえることになった。しかしセクストンは今日に至るまで、ミスター・キングリーのファーストネームを知らない。彼が言うように、当時はすべてがフォーマルな時代だったのだ。

 

 ミスター・キングリーは、リージェント・ストリートに面した有名な乗馬服の仕立て屋、ハリー・ホールで働いていた。セクストンは1年後にアシスタント・カッターとなり、さらに2年間勤めた。その後、サヴィル・ロウのテーラー、キルガーの評判に惹かれ、その技術を学びたいと思った。

 

「キルガーの顧客はケーリー・グラントやフレッド・アステアなど、映画界のトップスターや、大金を持った人々でした。1950年代後半における、最高の人たちが集まっていたのです」

 

 セクストンは裁断室で働きながら大学にも通い、生地のテクノロジーとパターン・メイキングの勉強を続けた。腕を上げた彼は、やがて“Donaldson, Williams and G. Ward”という会社に入った。そこで伝説的なショップスタッフ、トミー・ナッターと出会うのである。

 

 


セクストンが仕立てた服を着るトミー・ナッター(1970年代初頭)。

 

 

 

 セクストンとナッターは友人となり、夜な夜な遊びに出かけて将来を語り合った。その間もセクストンは、個人の顧客に自分の服を仕立てていた。セクストンはこう回想する。

 

「副業をしながら、個人顧客を開拓していました。経験を積む唯一の方法は、外に出て自分の仕事をすること。自分の夢を追いかけ、自分の好きなスタイルやデザインを作る。オープンマインドで、クリエイティブであることが大切なのです。おかげで、外に出てやってみようという気持ちになれました」

 

 当時も今も、若い人たちがエネルギーを発揮してひとりでやっていくには、何かしらの助けが必要だ。

 

「トミーはとてもハンサムで魅力的でした。彼は夕方になると出かけて行って、セレブリティたちに会っていました。そうやって私たちは、ビートルズのマネージメントしていたピーター・ブラウンに出会ったのです。他にも、貴族院の法廷弁護士だったジェイムズ・ヴァランス=ホワイトや、(後にさまざまなミュージシャンにナッター・スタイルを紹介することになる)歌手のシラ・ブラックなどがいました。トミーは社交術に長けていて、いろいろな人たちと接点がありました」

 

 そういった有名人たちに後押しされ、彼らはサヴィル・ロウにナッターズを開いたのだ。ふたりは新しいルックのアイデアに取り組んだ。それはキングス・ロードやカーナビー・ストリートで流行っていたものに、大きな影響を受けていた。

 

 

 

 

 セクストンは、イブニング・スタイルと、ハリー・ホールから学んだ乗馬服を組み合わせたスタイルに取り組んだ。

 

「ふたつのジャケットを組み合わせて、丈が長く、ウエストが絞られ、裾がフレアしているスタイルを作り上げました。ロープドショルダーは幅が狭くスクエアで、ラペルは非常に幅広。シングルのジャケットに、ダブルブレステッドのピークトラペルをつけてみたのです。当時としては画期的な試みでした」

 

 1971年の結婚式でミック・ジャガーとその妻ビアンカが着用した衣装は、ナッター・スタイルの典型といえるものだった。彼らは当初から、男性用だけでなく女性用の服も仕立てていた。ツイッギー、シラ、そしてビートルズ(ガールフレンドを含む)は、パラレル・トラウザーズ(股上の深い、太めのストレート〜フレアーシルエットのトラウザーズ)を穿いた。彼女らは、男性的なテーラリングを着用することで、よりそのセクシーさを際立たせたのだ。

 

「それこそが私たちのルックでした。とてもエッジィな格好でしたが、洗練されていて、エレガントでした。他で作られていたものとはまったく違う、革命的なスタイルだったのです」

 

 彼らはサヴィル・ロウのイメージをも大きく変えた。それまでテーラーがベルベットのカーテンをかけていたところの壁とカーテンを取り払い、洋服を飾ってウィンドウ・ディスプレイを始めたのだ。

 

 当時のファッションは非常にクリエイティブだったが、スピードが速く、軽薄でもあった。しかし、ナッタ―ズが作っていたのは、新しいトレンドと過去のスタイルを組み合わせたものだった。「非常に建築的な服でした。それが今日まで続く私の仕事です」。

 

 

 

 

 ナッタ―ズの服は、他のテーラーとは違った雰囲気があった。着る人を実にエレガントに見せるのだ。リラックスしているが、肩で風を切っているようなカッコよさがあった。彼らは、自分たちの作品がいかに独創的であったかを知っていたのだろうか?

 

「画期的なことをしていると気づくには、私たちは若すぎました。アドバイスをくれる人も、チームもいませんでした。世界に火をつけるつもりなんて毛頭ない。私たちは、ただビジネスを始めたばかりの若者だったのです。発表したルックは目新しいものでしたが、縫製はサヴィル・ロウの古い伝統に則って行いましたし、職人による縫製技術にこだわり続けました。新しいデザインと古くからのテクニックが組み合わさったとき、非常に際立った作品ができあがったのです」

 

 彼らが作り上げたスタイルは、あらゆる場所で注目された。

 

「トミーは社交的で、セレブリティと交際し、服の着こなしも抜群でした。やがて私たちがやっていることは新鮮に捉えられ、ファッション編集者たちが群がってきました。顧客にはビートルズやミック・ジャガーのようなミュージシャンから、男爵ポール・ハムリンや実業家ロバート・マクスウェルなどの大御所までいました」

 

 ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』(1969年)のジャケットでは、4人のメンバーのうち3人がナッターズの服を着ている。

 

 

 

 

「私たちの顧客は多種多様な人々で、アメリカ人のファンも多くいました」。アメリカ人と遠距離で仕事をするときは、セクストンはゲージサンプルをたくさん用意し、試着させた。

 

「距離が遠くても、最初の試着からフィットしたものを選べるよう工夫しました。ですから一回目の試着でリピートの注文を受けることもありました。最初の1着を注文しに来て、また4、5着と注文して帰るのです」

 

 彼は今日でもこの方法をとっている。

 

「ゲイの顧客も多かったですね。トミーに惚れて、会いに来るのです」。60年代ではまだまだタブーだったため、彼らはさまざまな隠語を駆使して会話をしていた。

 

 セクストンはストレートである。彼はジョアンヌと結婚して52年になり、3人の子供と5人の孫がいる。しかし彼はゲイの人々と交流を持つことでゲイ・カルチャーにも精通するようになった。その中には、男性に女性のニックネームをつけるという愉快な習慣もあったという。トミー(=パメラ)、エドワード(=ロクサーヌ)、ジョー・モーガン(=ミスティ)といった社内スタッフだけでなく、エルトン・ジョン(=キティ)、ジョン・レノン(=スザンヌ)、ミック・ジャガー(=キャサリン)といった具合だ。

 

「70年代のセレブリティのクライアントはカリスマ性に溢れ、一緒に仕事をするのがとても楽しかった」とセクストンは目を細める。「すべてをトミーに任せていました。セレブたちは約束を守ることができません。時間通りには絶対に来ないのです」。

 

 


ステラ・マッカートニーとセクストン。

 

 

「仕立て服以外では、ジョン・レノンとヨーコのために、リネンのジャンプスーツをあらゆる色で作りました。エルトン・ジョンのためにはピアノバックのジャケットを仕立てました。このデザインは、フレッド・アステアが1950年代に出演した映画に出てくるスーツからとったものです。トミーはいつも時代の最先端を行くために、スタイルを変化させていました。ビアンカ・ジャガーのためには、40年代風の広いスクエア・ショルダー、ショート丈のジャケット、オックスフォード・バッグを使った別のルックをコーディネイトしました」

 

 ナッターとセクストンの出会いはいくつもの新しいスタイルを生み出した。どれも最高に洗練されたコレクションだった。ナッターは1992年、エイズによる合併症で49歳の若さでこの世を去ったが、その遺産は永遠である。その後、セクストンはひとりで活動を続け、その評価を不動のものとした。

 

 ポール・マッカートニー卿は、娘のステラをセクストンに紹介した。彼女はセクストンのアトリエで共同作業を行っている。後にステラがクロエのクリエイティブ・ディレクターになると、セクストンをパリで行われたクロエのコレクションに参加させた。セクストンはクロエの生産を別の方向に導いたといえる。

 

「メンズの工場を使ってウィメンズの服を作りました。それが、やりたいことが表現できる唯一の方法だったのです。女性物の工場では望むような洋服ができませんでした。それはシルクやシフォンのようなフェミニンな生地を使いながら、クラシックなテーラリングで仕立てるという方法です。新しいカッティングを取り入れて、生地メーカーとのコラボレーションを行いました。かなりチャレンジングな試みでしたが、大成功を収めました」

 

 

 

 

 クロエのショーのオープニングを飾ったのは、スーパーモデルのナオミ・キャンベル。セクストンは、そこで初めてキャンベルに出会った。ふたりの交流はそこから長く続き、2010年にリリースされたデュラン・デュランの楽曲『ガール・パニック!』のPVでは、セクストンがキャンベルの衣装(真紅のスーツ)を担当した。また、カタール王室のモーザ王妃もセクストンのファンのひとりである。

 

「私の女性服は、男性服と同じフィロソフィーで作られていますが、より曲線的で体を包み込むものとなっています。多くの女性はセクシーに見せるために、着心地の悪い服を我慢して着てきました。多くの男性も、ほとんど動くことができないほどフィットした服に袖を通してきました。皆、美しくあるためには快適さは犠牲にするべきだと信じていたのです。そこで私は何十年もの間、このセクシーなシルエットを、不快感なく実現させるテクニックを磨いてきました。お客様は、昼も夜もずっときれいに見え、しかもリラックスしていられるのです」

 

 幸運なことに、私はここ数年セクストンと頻繁に仕事をし、さまざまな有名人をいろいろなプロジェクトに起用してきた。最近は、一流の俳優たちが映画賞などの授賞式にセクストンのMTMのサンプルラインを着用している。彼らは一様に輝いて見えた。セクストンの顧客は素晴らしい人たちばかりだ。そのためかもしれないが、彼は私が会った中で最も平等主義な男である。私の親友も、結婚式の衣装にセクストンの服を選んだ。彼の温かさは相手が有名人でも、一般人でも変わらない。

 

 セクストンが持つプロポーションを見極める力と、昔ながらのグラマラスなセンスは、誰にも真似できないものだ。1920〜30年代のプロポーションを現代的なセンスで表現したカッティング技術に信念を持つ一方で、後進の指導にも熱心に取り組む。彼はこう言い切った。

 

「自分を老人と思っていません。若く、現代的な思考を保っています。若いクリエイティブな人たちと仕事をするのが大好きです」

 

 彼の服を二代にわたって愛用するロックスターも多く、リック・オウエンスやチェスター・バリーといったブランドからも、コンサルティングを求められている。

 

 


ナイツブリッジのスタジオで作業中のセクストン。

 

 

 バランスとプロポーションを量りながら仕事をするセクストンの姿は、まるでクチュリエのようだ。アトリエに弟子たちを呼び寄せ、衣服の解体を繰り返しながら、改良を加える。袖のピッチやジャケットの背中のラインなどを慎重に調整していく集中力は凄まじい。

 

 彼は冗談めかして、「自分の服には“セックストン・アピール”がある」と笑う。加えて、生地の柄や色のミックス、タブカラーやピンカラーのシャツを使って、スタイルに「ロマンスを与える」とも語る。

 

 工房の雰囲気もまた、セクストンのエネルギーと情熱に満ちており、彼からポジティブな影響を受けている。エドワード・セクストンは卓越したスタイル・メーカーであり、その伝説は揺るぎない。