THE MOST RAKISH WINTER OLYMPIANS

レイキッシュだった冬季五輪選手たち

February 2022

北京冬季オリンピックが開催されている。かつて冬季オリンピックに参加した選手の中で、レイキッシュだった人物を紹介しよう。

 

 

by FREDDIE ANDERSON

 

 

 

 

 

 

 北京の象徴、“鳥の巣”スタジアムを彩る壮大な光のショーを皮切りに、ついに2022年の冬季オリンピックが始まった。世界中でさまざまな問題を抱える中でのスタートであるが、この最高峰のスポーツ大会は選手たちだけでなく、世界中に希望、平和、自由をもたらす力を持っている。

 

 世界的に有名な映画監督、張芸謀が演出した開会式で、中国の習近平国家主席は1分間のスタンディングオベーションを捧げた。凍てつく北京の空にファンファーレが響き、花火が輝く中、習近平は開会を宣言した。

 

 北京は夏季と冬季の両方を開催した初めての都市となった。「寅年」と「オリンピック」が重なるという偶然もあった。ともに「野心」「勇気」「力強さ」を表すという。

 

 今回の冬季オリンピックは、さまざまな話題に事欠かない。ジャマイカは24年ぶりに4人制ボブスレーチームを結成した。サンフランシスコ生まれのフリースタイルスキーヤーでIMGモデルでもあるアイリーン・グーは、アメリカで活躍した後、所属を中国に変え、大会の顔として活躍している。メダル獲得数の予想としては、トップはノルウェー、英国チームは3~7個と言われている。

 

 とはいえオリンピックにはメダル以外に多くの意味が存在する。まず、オリンピックのシンボルである5つの輪は世界の5つの大陸を表している。オリンピックのモットーは“Citius  Altius  Fortius”で、これはラテン語で“より速く、より高く、より強く”を意味し、道徳的な美しさのプログラムを表している。

 

 昨年、このモットーに、国際オリンピック委員会によって“Together―共に”が加えられた。オリンピックで最も重要なことは、参加することであるということ。これこそが、オリンピックが他のスポーツイベントとは異なり、並外れて感動的なストーリーを生む理由のひとつなのだ。

 

 オリンピックに華を添えるのは聖火だけではない。粋で、格好良く、命知らず——レイキッシュな魅力に彩られた多くのオリンピアンたちがいた。彼らはゲレンデの内と外で、その名を轟かせてきた。

 

 

1948年サンモリッツ冬季オリンピックのトレーニングで、クレスタラン滑走の準備をする英国のボブスレーチーム。

 

 

 

 

Alfonso de Portago

アルフォンソ・デ・ポルターゴ

 

 本物のスペイン貴族——第13代メホラダ伯爵にして第11代ポルターゴ侯爵、マドリッド総督(第9代ポルターゴ侯爵)の孫であり、スペイン王(アルフォンソ13世)を名付け親に持つ“アルフォンソ・アントニオ・ビチェンテ・エドゥアルド・エンジェル・ブラス・フランシスコ・デ・ボルハ・カベサ・デ・ヴァカ・イ・レイトン” ——アルフォンソ・デ・ポルターゴは、抑えきれないスピードへの欲求を持っていた。ジョッキー、ボブスレー選手、飛行士、ポロ・プレイヤー、ハイアライの達人、そしてレーシングドライバーとして活躍した。ハンサムで高身長(183cm)な貴族/コンキスタドールであった彼は、グランドナショナル、F1、そしてオリンピックに挑戦したのだ。

 

 1956年、イタリアのヴェネト州コルティーナ・ダンペッツォで行われた冬季五輪では、スペイン初のボブスレーチームのメンバーとして参加し、二人乗り部門で4位に入賞。その1年後、サンモリッツで開催されたボブスレーの世界選手権では銅メダルを獲得した。

 

 しかし1957年、イタリア、ミッレミリアのレース中にフェラーリを駆っていた彼は、観客を巻き込む大事故を起こし、29歳の若さで死亡した。

 

 

冬季オリンピックで、凍ったコースをボブスレーで疾走するスペインのスポーツマン、アルフォンソ・デ・ポルターゴ(1956年)。

 

 

 

Nino Bibbia

ニノ・ビビア

 

 ニノ・ビビアがサンモリッツに来たのは3歳のときだった。彼はその地で暮らし始め、ボブスレー、スケルトン、アイスホッケー、スキージャンプなど、ウィンタースポーツの世界で活躍した。1948年のサンモリッツ冬季オリンピックではボブスレーのイタリア代表に選ばれ、さらにスケルトンの代表にも選出された。スケルトンでは有名なサンモリッツのコース“クレスタ ラン”で231回もの優勝を果たしている。

 

 ニノ・ビビアは自分のソリを愛するあまり、ローザ・シュミットと結婚した直後に、ふたり乗りのボブスレーでコースを滑り降りたという。

 

 2006年のトリノ冬季オリンピックでは、ボブスレー・リュージュ・スケルトンコースのカーブのひとつにビビアの名前が付けられた。彼のスポーツ界での功績を称え、イタリアオリンピック委員会から金メダルが授与された。

 

 

サンモリッツ“クレスタ ラン”にて行われた冬季オリンピックのスケルトン競技でヘルメットを調整するニノ・ビビア。彼は冬季オリンピックとしては初の金メダルをイタリアにもたらした(1948年)。

 

 

 

 

Jean-Claude Killy

ジャン-クロード・キリー

 

 ジャン-クロード・キリーは、フランスの万能スポーツプレイヤーだ。1968年のグルノーブル冬季オリンピックにおいて、出場した3種目、滑降・大回転・回転すべてで金メダルを独占した。またアルペンスキー世界選手権では6個の金メダルを獲得、1967年・1968年の2シーズン連続で総合優勝を果たすなど圧倒的な強さを誇り、“王者キリー”の異名を取った。

 

 ポルターゴと同様に、彼はレーシングドライバーとしても短いキャリアを持っていた。また映画やCMにも進出し、1972年の映画『白銀の冒険』ではヴィットリオ・デ・シーカと一緒に、スキーのインストラクター役として出演している。

 

映画『白銀の冒険』(1972年)のジャン-クロード・キリー。

 

 

 

 

Albert II, Prince of Monaco

アルベール2世 モナコ公国王子

 

 レーニエ3世とグレース・ケリーの息子であるアルベール2世王子は、モナコ代表として1988年から2002年まで5回連続で冬季オリンピックのボブスレーに出場し、2人乗りと4人乗りの両方に参加した。

 

 1988年、1994年、1998年の冬季オリンピックではモナコの旗手を務め、1985年からは国際オリンピック委員会のメンバーであり、母方の祖父であるジョン・B・ケリーSr.と母方の叔父であるジョン・B・ケリーJr.はともにボート競技のオリンピック・メダリストだった。

 

 彼とオリンピックの関係はそれだけではない。後にモナコ公国大公となったが、后として選んだ20歳年下のシャーリーンは南アフリカの元オリンピック水泳選手であった。

 

 

グレース・オブ・モナコ公妃と子供のキャロライン王女、アルベール王子(1962年)。