STYLE HEROES: JAMES DEAN
反抗を象徴する着こなし:ジェームズ・ディーン
October 2021
1950年代のアメリカにおいて、ジェームズ・ディーンは反抗的な若者の象徴であった。彼のスタイルは驚くほどシンプルだが、アメリカン・カジュアルを着こなす際の永遠の基準となっている。
by charlie thomas
1955年9月30日、南カリフォルニア、ウィーラー・リッジ。稀代の俳優ジェームズ・ディーンは、スピード違反の切符を切られたばかりだったが、ベーカーズフィールドの南の平坦で埃っぽい道を疾走していた。午後3時30分、制限速度55マイルのゾーンで時速65マイルのスピードを出していた。それから2時間後、彼は死んだ。
ディーンは優れたレーシングドライバーであり、事故のわずか9日前には新しいポルシェ“リトル・バスタード”550スパイダーを納車されていた。しかし、その週の終わりにエントリーしたサリナスのロードレースには参加できなかった。
24歳のディーンは、出演作わずか3本で夭折し、世界中に衝撃を与えたが、彼の姿はその後も決して色褪せることはなかった。ハンフリー・ボガートの言葉を借りれば、「ディーンはちょうどいい時に死んだ。彼は伝説を残した。もし彼が生きていたら、ここまで名声を遺すことはできなかっただろう」。
ディーンは天才的な演技力を持っていたが、スクリーンの外での振る舞いによって彼を際立たせ、反抗的な若者の象徴となったのである。彼は当時のハリウッドのしきたりに従わず、自分のルールで生きていたのだ。
ワーナー・ブラザーズと契約していたとき、スタジオのボス、ジャック・L・ワーナーは、ディーンがトライアンフTR5トロフィーやポルシェ550を公道で運転することを禁止し、閉鎖されたサーキット内で走らせることのみを許可した。それも長くは続かなかったが。
ディーンのスタイルは、ハリウッドの一部の人々の反感を買った。ボガート、スチュワート、クーパー、グラント、ゲーブルなど、50年代を代表する男性映画スターの多くは、洗練されたテーラードスーツで“古き良きハリウッド”を体現していたが、ディーンは服や外見にこだわらず、撮影現場には裸足で現れ、破れたトラウザーズを安全ピンで留めていた。
女優のジュリー・ハリスは、ディーンとのランチを思い出し、こう語っている。
「ドレスシャツも着ずに、撮影現場からそのままの、古いダンガリーを着ていたわ」
ディーンのスタイルは、もともとカジュアルなものだった。青春時代の大半をインディアナ州の叔母の農場で過ごした彼は、同時代の役者たちのようなスーツ・スタイルとは異なり、機能的でカジュアルな服を好んで着ていた。
新時代の男性像を演じた『理由なき反抗』(1955年)での真っ赤なブルゾンは、常にディーンを連想させるが、彼は普段も同じようにスタイリッシュで着回しのきく軽量のジャケットをいくつも着こなしていた。
また、同作で着ていたタンのスエードのカレッジジャケットや、毛皮の襟がついたレザーのバイカージャケットは、彼のヒーローであるマーロン・ブランドからインスピレーションを受けたものである。
Lee 101Z Riderジーンズにエンジニアブーツを合わせ、トライアンフにまたがって着ていたこのジャケットは、彼の最高のルックのひとつであり、その後レザージャケットをワードローブの定番として広めるきっかけとなった。
ディーンほどプレーンなTシャツを見事に着こなした者はいない。1950年代以前は、Tシャツはアンダーウエアとして考えられており、着心地を良くするためにドレスシャツの下に着るもので、アウターウェアとして着ることはまずなかった。
ブランドが1951年の『欲望という名の電車』でそれを変えたが、ディーンはその短いキャリアの中で、スクリーンの内外を問わずTシャツを着続けた。白無地、時にはストライプ柄のTシャツを好んで着ていたディーンは、デニムやブーツ、ペニーローファーと合わせ、そしていつもタバコをくわえていた。
50年代の映画スターにとって、このような服装がどれほど過激なものだったのか、今となっては想像することすら難しい。だが当時、ディーンのような立場の人間が、一定の行動や服装を守るよう求められていたのは事実だ。今でこそジーンズにTシャツという格好は当たり前だが、当時、特に上流社会では、反抗的な行為だとみなされていたのだ。
ディーンは一時、イタリアの裕福な女優ピア・アンジェリと婚約していたが、彼女の母親がディーンのカジュアルな服装を認めなかったために破談となったと言われている。特にイタリアではまったく受け入れられないだろうという理由である。
ディーンは他人に阿る(おもねる)ことをしなかった。決してスーツを着ることはなかった。なぜなら他の誰もが着ていたからだ。スタジオのボスに頭を下げることもなかった。
曖昧だったセクシュアリティについて質問されても、「片手を後ろで縛って生きていくつもりはない」とだけ答え、分類されることを拒否していた。
彼は真に己を貫いた。そしてこの世界において、それ以上に称賛に値するものはない。