CAPTAIN IMMORTAL: FRANCIS CURZON

不滅のキャプテン:
フランシス・カーゾン

December 2019

 

 

 それ以降、ハウの勝利はいつもドラマティックだった。その後すぐに、8台ものブガッティがクラッシュしたディエップのグランプリで、1.5リットルのドラージュを駆って勝利した。そのドラージュは、1933年のモンツァでの事故で大破した(しかしハウは無傷だった)。

 

  彼は1935年ミッレ・ミリアでMGマグネッテを駆って出場しクラッシュ、その数年後には英国ブルックランズ・サーキットにおいて、タイ王国のプリンス・ビラとポールポジションを争っているときに、キャリアの中で最もひどい事故を起こした。しかし翌年、同じサーキットで174km/hという個人としてのベストラップを記録した。

 

 レースをしていない時のハウは、フィアット500でウエストミンスターの上院に飛び込み、レーシングカラーを纏ったまま論争に加わっていた。

 

 第二次世界大戦によって彼のレースキャリアが終わるまでに、ハウはル・マンとミッレ・ミリアでの勝利に加えて、英国モーターレース・チャンピオンに5回もなった。1930年代半ば、タイム誌は、彼のレーシングカーのコレクションを“ヨーロッパで有数の素晴らしさ”と評した。

 

 

 彼はまた、ベントレー・ボーイズと行動をともにしていた。その一人は、ル・マンで優勝したバーキン卿だった。彼は1964年に亡くなるまで、1928年にダドリー・ベンジャフィールドと共同設立したブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブの会長を務めた。

 

 彼は従兄弟のメアリー・カーゾンと結婚し、30年間を過ごした。娘のサラ・カーゾンはF1ドライバーのピアス・カレッジと結婚し、1970年のオランダ・グランプリでのカレッジの死後、動物園とギャンブル・クラブのオーナー、ジョン・アスピノールと結婚した。

 

 第二次大戦後、ハウは500ccフォーミュラレースの支援に尽力し、スターリング・モスなどの偉人を輩出した。1948年にシルバーストーンで行われた、最初のイギリス・グランプリの開催に尽力した。ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブは彼の死後、その功績を称えて“アール・ハウ・トロフィー”を最も名誉ある賞のひとつとした。

 

 ハウ卿の記憶は、いくつものつまらないゴシップや、彼の血統によって喚起されるものではない(彼のひ孫のクレシダ・ボナスはハリー王子の元恋人だった)。彼の最大の遺産は、モータースポーツが冷たいテクノロジー一辺倒になる前の、熱きスピリットを思い出させてくれるところにある。

 

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