Tuesday, July 24th, 2018

AN AFFAIR TO FORGET
セックス、ドラッグ、死、そして“甘い生活”

1953年4月、ある女性の遺体がローマの海岸で発見された。
自殺あるいは事故死として幕が引かれたこの事件は、数カ月後、
マスコミの追及によって再び世間の注目を集めた。
しかし、真相は現在まで明らかにされていない―。
text nick scott

 女性スキャンダルが報じられて間もないにもかかわらず、裁判所に黒のセダンを乗り付けるシルヴィオ・ベルルスコーニはふてぶてしかった。険しい表情の裏には、あくまで身の潔白を装うという意図があったのかもしれない。火遊びを繰り返して首相の座を何度も失ってきた彼は、内心こう考えていたのではないか。「まだ若いこの国家の歴史においては、大きなスキャンダルといえども数十年もすれば忘れられるだろう」。
 そうだとすれば、彼は正しい。ルネサンスの研究者なら証言してくれるだろうが、この土地の支配階級の中にある、退廃的な贅沢を満喫する技は、ローマ帝国とともに滅びたわけではない。1953年に起き、のちにマリオ・シェルバ首相を襲ったあるスキャンダルは、イタリア国民の耳目を集めた。事件にインスピレーションを受けて映画『甘い生活』を製作したフェデリコ・フェリーニ監督も、そうした国民のうちのひとりだった。

マスコミに取り沙汰された事件

 貴族、乱痴気騒ぎ、遊び好きな女性たち、ドラッグ、殺人など、醜聞に期待される際どいミステリー要素がすべて詰まったこの事件は、砂浜に女性の遺体が打ち上げられたことから始まった。発見現場はコニーアイランドをはるかに上流階級向けにしたような、ローマのオスティアにあるビーチだった。発見されたウィルマ・モンテージは、女優を目指す可憐な21歳で、物静かな女性。彼女は大工の娘で、地方の警察官と婚約し、幸せで満たされていたと思われていた。しかし発見時に身に着けていたのは、ブラウスとテディベア模様のパンティだけだった。
 遺体が見つかってからわずか1週間で事件の“解決”が宣言されたことに国民は疑問を抱かなかったが、それを説明するために警察が唱えたふたつの仮説については誰もが疑いの目を向けた。ひとつは、にこやかで若く、現実的な大望を抱いていたウィルマが自ら生命を絶ったというもの。自殺名所のテヴェレ川などでは死ねないと、美しい景色の中をひたすら歩いたあげく、海岸沿いでこの世に別れを告げたというのだ。ふたつめは、湿疹の患部を海水で洗おうと手足をバタバタさせていた最中に、“不運にも”溺死したという説。だが、水深はほんの足首ほどだったという。事態は隠蔽の匂いを漂わせ始めていた。
 ウィルマの遺体は未完成の花嫁衣裳に包まれて埋葬されたが、彼女の死の状況までは葬り去られることはなかった。かつて“トリビア”という言葉を生み出したローマでは、事件についてのあらゆる噂が街中で飛び交っていた(ちなみに“トリビア”は古代ローマでは三叉路という意味で使われていた)。
 さらに、ウィルマの死から7カ月後、創刊間もないグラフ誌『Attualità』が、彼女の顔を表紙に掲載して大々的に報じた。見出しは「ウィルマ・モンテージの死に関する真実」というセンセーショナルな文言だった。同誌の論説によると、モンテージの死因は溺死ではなく、15マイル離れたセント・ヒューバート・クラブでアヘンを吸い過ぎたことだったという。このクラブは、かつてイタリアの王族が所有した猟園に建つ豪華な狩猟小屋だった。記事では、一緒に飲み騒いでいた人々が彼女を遺棄したことを明らかに示唆していた。

ウィルマ・モンテージ殺害事件のエピソードからインスピレーションを得て製作された、巨匠フェデリコ・フェリーニの代表作『甘い生活』(1960 年)。イタリア映画界きっての色男マルチェロ・マストロヤンニと、ゴージャスかつ抜群のスタイルで人気を博したアニタ・エクバーグが主演を務めた。

ウィルマ・モンテージの不審な死亡状況が明るみになり、サン・バルトロメオ侯爵ウーゴ・モンターニャや、イタリアの外務大臣、アッティリオ・ピッチオーニを父に持つピエロ・ピッチオーニなど、ローマ社交界の著名人らを巻き込むスキャンダルに発展した。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 23
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