From Kentaro Matsuo

THE RAKE JAPAN 編集長、松尾健太郎が取材した、ベスト・ドレッサーたちの肖像。”お洒落な男”とは何か、を追求しています!

バックパッカーから有名時計ブランド代表へ
梶原誠さん

Wednesday, March 10th, 2021

梶原誠さん

パルミジャーニ・フルリエ・ジャパン代表取締役

text kentaro matsuo  photography tatsuya ozawa

 コロナ禍が続き、世の中暗い話題ばかりですが、たまには明るい話もあります。時計界では、昨年末にリリースされたばかりの、パルミジャーニ・フルリエの新作“トンダGT”が大ヒットしていることが注目を集めています。そのジャパン社の代表をなさっている、梶原誠さんのご登場です。

 

「お陰様で、トンダGTは、空前のヒットとなりました。1本1本手作りしているので、生産が追いつかず、ご迷惑をおかけしている状態です。今までパルミジャーニは、いわゆるラグジュアリー・スポーツの時計は作ってきませんでしたが、このジャンルは今や時計業界の“主戦場”となっています。今回初めてチャレンジし、うまく行ったことの意味は大きいと思います。コロナのあと、ファッションは大きく変化し、どんどんカジュアル化しました。そんな中で、クラシックなゴールド✕レザーストラップの時計ではなく、ゴールドをラバーストラップに合わせた“外し”のデザインがウケたのだと思います。フォーマルとカジュアルのあいだのようなこのコンセプトを、我々は“デイリー・エレガンス”と呼んでいます」

 私もトンダGTを初めて見た時、“これは売れるだろうなぁ”と思いました。もともとパルミジャーニは、その技術力とブランド力には、高いポテンシャルがあったのです。ただ、ラインナップが少々マニアックで、一般の人は手を出しづらい雰囲気がありました。そこに投入されたのが、時代の流れを反映したトンダGTだったというわけです。

 

 本日の梶原さんの装いは、このトンダGTに合わせてコーディネイトされたものです。スーツにタイドアップではなく、あえて、ジャケットにニットを合わせ、足元はスニーカー。ドレスダウンのお手本のような着こなしです。

ジャケットは、レクトゥールでオーダーされたもの。レクトゥールは、完全予約制のスーツ、ジャケットのオーダーサロンです。

「南麻布の高級住宅街にある一軒家で営業しており、外からみるとまるで普通の家のようです。今日のコーディネイトは私の担当をしてくださっている、森岡さんと一緒に考えました。トンダGTのカタログに登場するモデルも、着ているのは、こんな、ちょっとくだけたスタイルなのです。ダブルのジャケットは、ドーメルのスーパー160’sを使って仕立てたもので、ロンドン バッジ&ボタン社のメタルボタンをつけてもらいました。森岡さんには、“撮影するときは、前を開けたほうがいいですよ”とアドバイスされました」

 わざわざこの取材のために、新調して下さって、ありがとうございます。 

 

 中に着たニットは、ジョン・スメドレー。

「これも森岡さんに買い物に付き合ってもらい、選んだものです。白系がいいだろうということで、この色を選びました」

 

 チーフは、キートン。とてもお世話になっている、九州の時計店の社長からプレゼントされたものだそう。

 

 パンツは、M.I.D.A(ミダ)。イタリア、フィレンツェのブランドです。

スニーカーは、ニューバランスの996。私もまったく同じモデルを持っています。

「スニーカーはナイキが好きなのですが、今日の装いにはこちらかな、と」

 

 そして時計は、もちろんパルミジャーニ・フルリエのトンダグラフGT。トンダGTのクロノグラフ・バージョンで、ローズゴールドのボディにブルーのダイヤルと、同じくブルーのラバーストラップが実にスタイリッシュです。

「絵に描いたような、一点豪華主義(笑)」と仰っていましたが、やはりこの時計あってのコーデですね。

 爽やかなエグゼクティブそのものといった梶原さんですが、実はあまり爽やかではない時期もありました。

 

「高校生の頃は、ハードロックにハマっていました。ジューダス・プリースト、ホワイトスネイク、アイアン・メイデンなど・・、1980年代のブリティッシュ・ロックです。友人たちとZipsというバンドを結成してボーカルを担当していました。ファッションに目覚めたのもその頃で、髪を伸ばして、スタッズ付きのレザージャケットを着て、ブーツを履いていました。その頃、両親に、“俺は音楽でメシを食っていく!”と宣言したことがあります。やんわり、たしなめられましたが・・(笑)。ハードロックは今でも好きで、愛読誌は『BURRN!』なんですよ」

 

 大学では“美学”を専攻されました。

「もともとアートや絵画が好きだったので・・」

 このことが後々、役立っているように思えます。

 

ここから、梶原青年の波乱万丈の人生がスタートします。

「大学を出て、まず入社したのは、かつて銀座にあったホテル西洋でした。ドアマンやベルボーイをやっていたんです。ここは“スモール・ラグジュアリー”をテーマにしたホテルで、当時の東京には外資系のホテルはまったくなかったので、富裕層の遊び人たちが、よく集まっていました。ちょうど田崎真也さんがソムリエ世界一になった時で、それは華やかでしたね・・。ニコラス・ケイジやジョディ・フォスターといったハリウッド・スターたちもよく泊まっていました。“へーえ、こんな世界があるんだ”と目を丸くしました」

 

 その後、梶原さん自身が、世界へ飛び出すことになります。

「バックパッカー専門の旅行代理店へ転職したのです。働いている人たちは元バックパッカーばかりで、私も感化されました。沢木耕太郎さんや、藤原新也さんの本にも影響されました。そして28歳のときに長旅に出たのです。まず沖縄へ行って、知り合いのところへ転がり込んで、毎晩雑魚寝。飲食店で働きながら、お金を貯めて、石垣島へ。さらにそこから船で台湾へ渡りました。かつて石垣と基隆の間には、フェリー便があったんです」

 へえ、知りませんでした・・(調べてみたら、現在は廃止になってしまったようです)

 

「その後、中国大陸へ渡りました。その頃の中国は、今とはぜんぜん違っていました。まず、列車の切符を手に入れるのが一苦労なんです。駅へ行くと窓口には長蛇の列が出来ているので、そこで何時間も待たなければならない。待っている間は“中国並び”といって、前の人の両肘を手で掴んでいなければいけない。そうしないと、どんどん横入りされてしまうのです。ようやく自分の番になって“硬座寝台(インウォー)”と大声で叫ぶのですが、まったく通じない。“没有(メイヨー)”と追い返されてしまう。もちろん英語なんか通じません。そうすると周りにいる人たちが割り込もうと、どっと押し寄せてくるので、窓口にかじりついて、とにかく叫び続けるしかないんです(笑)」

 ハードロック・コンサート、顔負けの世界ですね・・

 

「タイで“沈没”したこともあります」(注=沈没とはバックパッカー用語で、もう世の中のことがどうでもよくなって、そこから動けなくなってしまうこと)

「日本人のニューハーフの友人の家に居候していました(笑)。彼女はプロの歌手だったので、出掛けていないことが多かった。毎日ぼーっとして、犬の散歩などをしたりしていました。“なんだか、このままずっと生きていけそうだな・・”という気分にとりつかれていました」

 ああそれ、いちばん危ないヤツですね・・

しかし梶原青年はかろうじて立ち直り、欧州を周ってから無事帰国。8ヶ月にわたる旅を終えたのでした。

 

「帰国してからしばらくは、放心状態でした。“もう、満員電車なんて乗れないな・・”と呆然としていました。しかし働かなければ食っていけない。そこで仕方なく朝日新聞日曜版の求人欄をながめていると、“ブライトリング”の文字が目に入ったのです」

 これが梶原さんの運命を変えました。

 

「ブライトリングのことは何も知りませんでしたが、“スイス云々”と書いてあったので、“ああ、海外で働けるのかな・・”くらいの気持ちで面接へ出掛けました。面接ではめちゃくちゃ生意気なヤツだったと思います。当時は子ギャル文化全盛の頃だったのですが、『ギャルたちが、ブルセラショップで下着を売って、そのお金でルイ・ヴィトンなどのブランド品を買っています。そういう現実をどう思いますか?』と本来面接されている側の私が、相手方の社長に尋ねたことを覚えています(笑)」

 しかし、驚いたことに結果は採用。ラグジュアリー・ウォッチ・ビジネスに関わることになります。

ブライトリングで研鑽を積んだ後、パネライの日本法人の設立に参加し、同ブランドを大成功へと導きました。そして現在のポジションへ上り詰めたと思いきや・・

 

「2013年に会社を辞めて、お菓子屋さんになりました。ついでに頭も金髪にしました」

って、えええ! どういうことですか?

 

「パネライでは、やれることは全部やり、燃え尽きた気分でした。実は私の妻はパティシエなので、一緒にスイーツのお店を始めることにしたのです。調べてみると、フロランタン(フランス菓子の一種で、フィレンツェが起源とされる焼き菓子)専門の店が日本にはないことに気が付きました。そこでフロランタン専門店をやることにしたのです。谷中銀座に“アトリエ ド フロレンティーナ”という店を出しました。会社員ではなくなったので、ハードロック時代から一度はしてみたかった金髪に染めたのです」

 と笑いながら見せてくれた写真には、菓子店の店頭に立っている金髪の梶原さんが写っていました。

 

 しかし、フロランタン専門店というコンセプトと、得意の“美学”を発揮した、センスよくまとめられた商品とインテリアがウケて、お店は大繁盛。あのエルメスがVIP用に大量に購入したことも手伝って、一躍有名店となりました。現在でも谷中にて盛業中で、本場フィレンツェに支店を出す計画もあるとか。

「儲かってスタッフを雇ったら、私がやることがなくなってしまった(笑)。そこでこの世界へ戻ってきたというわけです」

 

 まさに車窓から見る景色のように、目まぐるしく変わる人生です。

「人生、“なりゆき”ですかね・・(笑)。コロナになって、“目標を決めて、それに向かって進む”ということの不確実性がはっきりしてしまった。大切なのは、“フレキシビリティ(柔軟性)”だと思います」

 

 じゃあ、会社が潰れても、コロナ以上の危機が訪れても、怖くないですか? との質問には、

「ぜんぜん、怖くないですね(笑)。私はどこでも生きていける自信があります。私の好きな言葉に“カルペ・ディエム”というものがあります。(紀元前1世紀の古代ローマの詩人、ホラティウスの詩に登場する語句)。ラテン語から直訳すると“その日を摘め”という意味で、イコール“今を楽しめ”ということです」

 なるほど・・これまたコロナ時代の金言を頂きました。梶原さんは、人生を軽やかに、かつセンスよく生き抜く達人です。

大ヒット中のトンダGT。エレガントかつスポーティ。

 

 

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