From Kentaro Matsuo

THE RAKE JAPAN 編集長、松尾健太郎が取材した、ベスト・ドレッサーたちの肖像。”お洒落な男”とは何か、を追求しています!

アメ横から始まった、セレクトショップの伝説
三浦義哲さん

Tuesday, February 25th, 2020

三浦義哲さん

シップス代表取締役

text kentaro matsuo  photography tatsuya ozawa

 ファッション業界には“レジェンド(伝説)”と呼ばれる人がたくさんいますが、よくよく話を聞いてみると、単なる一発屋であることが少なくありません。

 真のレジェンドとは、その世界におけるパイオニアであり、世の中の流れを根本から変え、ビジネスにおいても成功し、形あるものを残している人のことだと思います。そういう意味で、シップス社長、三浦義哲さんほど、レジェンドという言葉に相応しい存在はないでしょう。

 1975年、渋谷に日本で初めてのセレクトショップといわれる“ミウラ&サンズ”を立ち上げて以来、常にこの業界をリードされてこられました。お生まれは1940年、今年で満80歳を迎えられます。

 

「私は北京で生まれました。父親は満鉄に勤めていて、もともとは銀行マンだったのです。終戦後、故郷である大分、鶴崎に戻ってきて、小学校5年生まで過ごしました。田舎だったので、ファッションなんてまるで縁がありませんでした。裸足で野山を駆け巡っていましたよ」

 その後、お父様が東京・アメ横にて経理の仕事に就かれ、一家は東京へ出てきます。1952年のことでした。

「母はアルバイトなどをしていたのですが、たまたまアメ横の中に貸し店舗をみつけて商売を始めたのです。二畳敷きの本当に小さな店で、軍の放出物資、横流れ品などを扱っていました。しかし、この“三浦商店”のお陰で、私は大学まで行かせてもらえたのです。店の手伝いは、よくしましたよ。オンボロのミゼットに乗って、厚木までヤッケやら、米軍の放出品を取りに行くのです」

 大学を卒業すると、家業は継がずに、なんと学校の先生になります。巣鴨の本郷高校で国語を担当なさっていたそうです。

「教師は7年間やりました。お洒落な先生だったと思いますよ。アメ横で手に入れたコンバースやリーバイスを着て学校へ行くと、生徒たちにきゃあきゃあ言われました(笑)。当時の学生たちの間では、憧れの品々だったんです。でも私にしてみれば、いつもそういったものに囲まれていたから、ファッションではなく普段着のような感覚でした」

 その後、1970年に大分へ帰りたがっていた母上に代わり、自らが代表となります。屋号もミウラと改称。

「輸入ものがやりたかったけれど、仕入れのやり方ひとつわかりませんでした。リーバイスのライセンス品を作っていた会社に『輸入品を扱ってくれよ』と頼んだら、『やったことがないから、わからない』と言われる始末。仕方がないから、リーバイスやリー、コンバースなどのメーカーへ、自分で英語の手紙を書きました。そうしたらカタログを送ってくれた。それを見ながらオーダーを入れ始めたのです。知り合いのアメリカのお店を通して、一番最初に仕入れたジーパンは“ディッキーズ”でしたね。アメリカで扱われているのは30~40インチくらいで、27〜29インチはアメリカ人には小さすぎたから必要ないとのことで、日本に送ってもらったりしました」

 

 そして1975年に、渋谷にミウラ&サンズを開店します。

「とにかくリーバイスが飛ぶように売れたのを覚えています。値段も自分が自由に決めていました。といっても、暴利を貪ったわけじゃない。サジェスト(倉庫出し価格)に船賃、税金、保険などを足して下代とし、これを上代(店頭価格)の65%くらいに設定しました。そのくらいが、よく売れる価格だったんです。ただし当時は1ドル=360円だったから、輸入品は高かったな。しかしそれからドルはどんどん下がって、今では3分の1でしょう。これはわれわれの商売にとって、すごくラッキーなことでしたね」

 三浦さんが始めたこの値付け方法は、今でもインポート業界で受け継がれ、輸入品の価格を決める際のスタンダードとなっています。この一事をとっても、この方がいかにすごい存在か、わかりますよね。

 

「“セレクトショップ”と呼ばれるようになったのは、ずっと後になってからです。当時はダイレクトに買い付けるしか、方法がなかったんですよ(笑)」

 バーズアイのスーツは、ワインレーベル フォー シップス。3つボタン段返り、センターフックベントなど、正統アメリカン・スタイルです。

「伝統的なアメトラのカタチです。サウスウィックというアメリカの工場で作ったものです。ここは長らくブルックス ブラザーズの仕事をしているところです。昔ながらの会社ですが、去年リニューアルされてきれいになりました。近代化もされているんです。イタリア物もいいけれど、私にはちょっとフィットしすぎている。アメリカのややボクシーなシルエットのほうが着やすくていい。一日中着ていても疲れないのです」

 

 タイとシャツもワインレーベル フォー シップス。

 

 チーフは、シップス創業30周年を記念して、15年前に作ったもの。つまり今年は創業45周年だそうです。

 

 メガネはドイツのローデンストック。

「去年白内障の手術をしたら、長年悩まされていた近視が治ったのです。そうしたら、メガネなしでゴルフが出来るようになった。ゴルフ場って、こんなにきれいなところなんだって、改めて思いましたよ(笑) これは老眼鏡です。ローデンストックは、サイドがバネのようになっていて、フィット感がいいのです。ここのは、昔からそうだったな・・」

 時計はビクトリノックス。ベルトは後から取り替えました。

「時計は好きでたくさん持っていて、その日の気分でつけかえます。ただ昔のものは手巻きが多いので、すぐに止まってしまうからな・・最近では、クォーツのほうが便利でいいですね」

 

 シューズは、英国クロケット&ジョーンズ。

「年なので厚い底の靴はキツくなりました。フラットなソールの靴のほうがラクでいい。これはロンドンへ行ったときに、買ってきたものです」

着やすいもの、普通のものが一番、と仰っていましたが、ワインカラーを効かせた着こなし、流石です。

 

 ワインといえば、三浦さんは、飲む方のワインも大好きだとか。

「1972年に初めてアメリカへ行ったとき、カルチャーショックを受けました。ファッションもすごかったけれど、食べ物が違っていた。ニューヨークカット・ステーキやスペアリブなど、肉の旨さは格別でした。そしてワインが美味かった。当時は米軍御用達のワインというのがあって、彼らは食事のときは冷えたデカンタに入った白ワインを飲んでいました。それから赤へ移る。アメリカ人というのは、食事の時は必ずワインを飲むものなのだと知りました」

 以来、ワインにハマり、現在でもワイン紀行へ出かけるそう。

「毎年、最優秀販売員4人を、ヨーロッパへ連れて行くことにしています。そして“今日はシャルドネ”、“今日はピノ”などテーマを決めて、ワインを味わってもらう。ただ高いものがいいというわけではなくて、品種ごとの違いを知ってもらいたいのです」

 凝り性は、ワインだけに留まりません。

「私は日本酒も大好きで、たとえ夏でも、すべてのお酒を燗して飲みます。本来、日本酒は燗をして飲むもので、しかもその燗の種類はいくつもあるそうです。例えば吟醸酒は30℃くらいの“日向燗”がいい。いつも専用の温度計で温度を測りながら、自分で温めているのです」

 ワイン以外に大好きなのは、クルマの運転です。

「クルマの運転は、そろそろ年齢的にうるさくなってきているのですが、好きなんだから仕方がない(笑)。今の愛車はシトロエンC4です。今でも年2回、実家を残してある大分へ帰るのですが、その時はクルマをフェリーで別送して、九州で乗っています。北海道へもドライブ旅行へ行きました。実は、大学時代は自動車部だったのです。しかし昔の“体育会系”でしたから、運転するのはトラックばかり。巨大なトラックを10人くらいで押してエンジンを“押しがけ”していました。S字やクランクでハミ出すと、失敗した数だけグラウンドを走らされて・・もう何部なんだかわからなかった(笑)」

 

 昔は、シップスの社員旅行の際にも、運転するのは三浦さんだったとか。

「皆で伊豆の民宿へ泊まりに行っていました。最初は普通乗用車で大丈夫だったのが、そのうち人数が増えて、マイクロバスではないと全員乗れなくなった。ですからマイクロを運転するために、わざわざ大型免許を取りました。車内では皆、酒を飲んでいるのに、社長の私だけが黙々と運転していましたね(笑)。つまり、それだけ運転が好きだったんだなぁ・・」

 シップスはいつ行っても、なんとなく“アットホームな”雰囲気がする会社なのですが、それは社長である三浦さんのお人柄によるものだったのですね。

 

 このおおらかなお人柄が、長年トップであり続け、多くのフォロワーを生んできた秘密なのかもしれません。“レジェンド”は、その名に似つかわしくなく、気さくで少年のような心を持った方でした。

 

 

 

「写真」もご趣味のひとつ。自ら撮影したアメリカ各地の灯台をポストカードにして。

 

 

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