THE RAKE STYLE GUIDE: THE MODS OF JAPAN
ザ・レイク・スタイル・ガイド:日本のモッズ文化
December 2022
モッズは1960年代のスウィンギング・ロンドンで興ったファッション&カルチャー・ムーブメントだ。トレードマークはスクーターとパーカ・コート。ザ・ビートルズ、ザ・ジャム、ザ・フー、そして後にオアシスやマイルズ・ケインといったアーティストに影響を与えた。彼らの美学は英国以外の国にも広がっていった。1960年代半ばには、一時的にアメリカでもブームが起こった。そして驚いたことに、ピークを過ぎた後も定着し発展させたのは、日本・東京においてだったのである。
by CHRIS COTONOU
DJ、音楽プロデューサーの黒田マナブによれば、1979年の映画『さらば青春の光』(60年代のモッズ全盛期のロンドンの若者たちの生活を描いた作品)が、モッズ・ムーブメントの火付け役となった。この映画の公開によって、モッズカルチャーが若者に知られることになり、新旧の面々が単館系の映画館に集まり、ザ・フーやザ・ジャムといったバンドへの愛を語り合うようになったのだ。
実際、1981年に東京で開催されたイベント、モッズ・メーデーは、ザ・ジャムの熱心なファンクラブが自分たちの手で企画した。200人以上の参加者を集めたこの集まりは、日本のモッズシーンの誕生と考えられている。その2年後、黒田マナブは20歳でメーデーを担当することになり、シーンを牽引していくことになる。
日本のモッズは、本場英国と同じようなスタイルを追求していた。ランブレッタやベスパのスクーターを購入し、過剰なヘッドライトやミラーを付け、パーカ・コートと細身のテーラード・スーツを着込み、ローファーやハッシュパピーを履いていた。クラシックなポークパイハット(どちらかというと、70年代にモッズ文化から分裂した“ルードボーイズ”的なアイテム)をかぶり、シャープなサングラスを着用する者もいた。
当時、英国ではザ・ジャムのポール・ウェラーを筆頭に、ザ・スペシャルズなどのモッズ系ミュージシャンが活躍していたため、海外から音楽やファッションのインスピレーションをたくさん得ることができた。特に、多くのモッズのファンジン(Modzine=モッズ系のカルチャーを特集した雑誌)が登場してからは、その傾向が強くなった。
東京のモッズ・メーデーの運営チームは、自分たちだけの雑誌を作ろうと決めた。そして1983年に創刊された『HERE TODAY』は、日本におけるサブカルチャーの歴史において重要なマイルストーンとなった。
掲載された写真は、英国のものとは対照的であった。日本のモッズたちは中流階級の出身で、その多くは大学生、および大卒社会人であり、モッズの定番アイテムとカラフルなパンクのアクセサリーをミックスさせるような金銭的余裕があった。
彼らのイメージは、60年代のモッズよりもポール・ウェラーのスタイルに近い。ローファーと同じくらいボーリングシューズやモンキーブーツが目立ち、チャコール・グレイやブラックではなく、ピンクやパウダーブルーのテーラードを身に纏っていた。
『HERE TODAY』は大きな影響力を持った。しかし、同じような出版社が乱立したため、黒田マナブはこのプロジェクトと並行して、音楽レーベル“Radiate Records(レディエイト・レコーズ)”を立ち上げることになる。
活動を音楽に切り替えた彼は、その人脈を生かして、ザ・コレクターズ、マージービート、ページスリーなど、東京のシーンで最も重要なグループとコンタクトをとった。この時点で黒田マナブは“キング・オブ・ジャパニーズ・モッズ”と呼ばれるようになっていたが、最大の功績はここからだった。
1984年、黒田マナブは60年代の英国のシーンを真似て、ランブレッタやベスパで街を走るモッズの集まり“スクーター・ラン”の伝統を復活させたのだ。これは今でも続いている一大イベントである。スクーター・ランは始まりに過ぎなかった。日本におけるモッズは、英国のモッズ(80年代にはその多くがクラブシーンに移行した)よりも長生きし、東京中で有名なDJやミュージシャンを誕生させた。
ザ・コレクターズは、新宿の繁華街に伝説のライブハウス“新宿ジャム”で演奏し、シーンに集い、踊るための場所を提供した。彼らは日本のモッズバンドを代表する存在となり、独自のサブカルチャーを体現する存在として現在でも活動を続けている。
英国のモッズが労働者階級出身者によって生み出された社会的ムーブメントであったのに対し、日本のモッズは、音楽やファッション中心のサブカルチャーであったし、今もそうである。80〜90年代にかけての日本では、新宿から生まれた音とスタイルによって、シーンは単純に繁栄していたのである。
ザ・コレクターズが企画したもの以外にも、モッズが集まってパーティをするイベントが東京のあちこちで開かれた。こういった動きは、モッズ風の服を着ていないと入れないという厳しいドレスコードを設けたクラブ“Whisky A Go Go”のオープンにより、その頂点に達した。
東京中にクラブやレコード会社ができ、90年代には日本のモッズ・カルチャーはピークに達した。1991年、モッズ・メーデーの参加者は1500人を超えた。その頃の雑誌には、モッズのファッションを取り入れた若者たちが、腕や肩にユニオンジャックのワッペンを付けたパーカ・コートを着て、ランブレッタに乗ってお茶目なポーズをしているカラフルな写真が、数多く掲載されている。
その後世紀末にかけて、彼らは少しずつストリートウェアの流行やエレクトリック・ミュージックに取って代わられていったが、モッズが新宿を離れることはなかった。日本でのモッズ・カルチャーは40年以上存続し、名古屋や大阪でもモッズ・メーデーの活動を続けている。
残念ながら、現在の若者たちは、より新しいアメリカのトレンドを求めるようになり、モッズの数は減少している。しかし、ソーシャルメディアがシーンを活性化し、今日でも日本におけるモッズ・カルチャーは、間違いなく英国よりも定着している。
現在のリーダーのひとり、masana modによると、中央線沿線には、黒田マナブやザ・コレクターズと同じような感性を持つ、新しい世代が集まっているという。彼らは音楽とスーツへの情熱を語り合い、特別なDJナイトを企画している。そして、毎年5月には恒例のスクーター・ランに欠かさず参加しているのである。